なぜ大谷翔平選手は日本語を使い続けるのか

大谷翔平選手は、アメリカにおける公式な挨拶も、美しい日本語で行っている。つい先日、ロスアンゼルス市が5月17日を「大谷翔平の日」に制定したセレモニーの会場でもそうだった。

試合後、取材に応じるドジャース・大谷
写真=共同通信社
試合後、取材に応じるドジャース・大谷=(2024年5月20日、ロサンゼルス)

彼が、自身の脳にフィットした母語を誇らしく使う姿を見るたびに私は胸が熱くなる。そして、このことが、彼のずば抜けた運動センスに関与していることを思わざるを得ない。ことばの発音には、身体制御の中枢司令塔・小脳を使うからだ。

運動選手が外国語を使うか使わないかは、その効用による。たとえば、サッカー選手がポルトガル語をマスターしたことによって、ポルトガル語が拓く感性を手に入れることになるかもしれない。サッカーの強豪国ブラジルの言語だから、サッカーのセンスに寄与する可能性はもちろんある。ただし、一方で日本語が拓く感性領域を少し休ませることになる。

脳がとっさに流せる神経信号の数は僅少なので、誰もが全方位に鋭敏になることはできないのである。脳にはどうしたって指向性があり、そのチューニングに関しては、戦略が必要だ。大谷翔平選手のように、最高峰の運動センスを誇る脳は、母語にこだわるべきだ。一方、発展途上の選手が、強豪国のことばをマスターするのはあり。

早期の強制的な外国語教育には賛成できない

ただし、多くの人が、母語に特化したセンスを究めたほうが有利なのは否めない。母語は、母の胎内で10カ月近くも、母親の横隔膜の動きや音響振動、母親の感情変化に伴うバイタル情報と共に脳に入れてきた魂の言語なんだもの。

だから私は、早期の、半ば強制的な(母語を無邪気にしゃべれない時間が何時間にもわたるような)外国語教育に賛成できないのである。ただし、ときどき通うだけの、楽しく遊ぶタイプの幼児教室などはその限りではない。

とはいえ、子どもを汎用言語の流暢な使い手にしたいという親の強い希望があれば、それはそれ。脳の感性のチューニングは、そもそも親の影響で施されるもの。日常の些細な言動の一つ一つが、子どもの脳の指向性を作っているので、親の生き方に任せるしかない。祖父母には、なんともしがたい聖域なのである。