特有の感性を捨てて、汎用言語を取る?

脳の母音に対する感性は、3歳くらいまでに絞り込まれていく。このため、それより以前に外国語教育を始めれば、ネイティブのようにしゃべるのが簡単なのだ。と同時に、日本語人特有の感性が弱まる可能性が高い。というわけでまぁ、どっちを取るかって、話である。

日本人特有の感性を、私はけっこう重要視している。数学や物理学の領域では多くの日本人が業績を残しているし、漫画やアニメやゲームなどのエンターテインメントの分野でも世界をけん引している。

私たち祖父母世代が若者だった時代は、グローバルということばが世界を席巻し、マジョリティ(多数派)が世界の勝者だった。だから、マジョリティ言語=英語をマスターして、「世界の一般人」を目指す必要があったのである。

今や、汎用の答えはネットやAIが即座に教えてくれる時代、人々が欲しがっているのは汎用の答えなんかじゃなく、「そこにしかない個性」である。そんな時代に、汎用言語の使い手になる?

日本語人の家庭で日本語を習得できる幸運

なお、海外で育つ、あるいは家族の中に複数の母語の使い手がいるなど、日常に「感情とともに話される言語」がハイブリッドで飛び交っている場合は、「日本語をしゃべるときは日本語が拓く感性、他言語をしゃべるときはその言語が拓く感性を使う」というハイブリッド脳になる可能性もある。

ただ、現実には(そういうご家庭の様子をお聞きしてみると)、子どもたちの脳は主たる言語を決めるようだ。気持ちを表現するのに優先して使う言語が生じて、その感性を伸ばしていくようである。

脳は、結局、自分に合った言語を母語として選び取る。両親の母語と、育つ社会の母語が一致していれば、自然にそれ。母語ハイブリッドな環境で育った脳は、その脳らしいチョイスをして、個性を発揮する。

私は何も、単一言語でないといけないなんて言ってない。日本語人の家庭に生まれ、日本語の使い手として育っているのなら、その幸運を生かさない手はないのでは? と言ってるだけ。