マッカーシーは大酒飲み、リストの人数も言動もあやふやだった

原爆開発の中心人物だったオッペンハイマーも、親族に共産党員がいたことと、原爆に続く水素爆弾(水爆)の開発に異議を唱えたことから公職を追放された。ソ連と戦う諜報機関も疑われ、CIAの分析官ウィリアム・P・バンディは、ソ連のスパイだったアルジャー・ヒスの弁護活動に寄付したためにマッカーシーの標的となる。もっとも、バンディ自身がソ連のスパイという証拠は何も挙がらず、CIA長官のアレン・W・ダレスがバンディを擁護したので、やむなくマッカーシーは引き下がった。

佐藤優『米ロ対立100年史』(宝島社)
佐藤優監修『米ロ対立100年史』(宝島社)

当時はアメリカでテレビが普及し始めた時期で、政治家の記者会見や赤狩りの対象となった人物の査問が放送されて多くの人々の耳目を集めた。こうした背景もあり、マッカーシズムは群集心理によって拡大し、公的な機関によるものばかりでなく、マスメディアやキリスト教系の民間団体などを通じて大衆の間にも広まった。

赤狩りを広めたマッカーシーは極度の大酒飲みで、所持している共産主義者のリストの人数も発言のたびに数字が大幅に変わり、言動にあやふやな点が多かった。こうした問題点に加えて、1953年12月にマッカーシーは陸軍内にもソ連のスパイがいると公言したが、十分な証拠がなかった。これは陸軍の猛反発を招き、陸軍元帥だったアイゼンハワーを敵に回すことになる。この頃には朝鮮戦争が休戦し、共産主義の脅威は落ち着いたと見なされ、ほかの政府関係者や議員も一転してマッカーシーを批判した。1954年12月には上院でマッカーシーを非難する決議が可決される。すっかり影響力を失ったマッカーシーは酒に溺れた生活を送り、それから3年後に病死した。

【関連記事】
【第1回】農産物も家畜も奪われ、人肉食に手を染めた者も…ウクライナ人が今も忘れない「ソ連の大飢饉」への怒り
金正恩が「いま何階のどの部屋にいるか」を常に監視している…世界中の独裁者がアメリカ軍を恐れる本当の理由
戊辰戦争後に「見せしめ」で破壊された…新政府軍の1カ月にわたる猛攻に耐えた会津若松城をめぐる悲劇
だから中国は尖閣諸島に手を出せない…たった1万4681人で"世界6位の海"を守る海上保安庁の知られざる仕事
「お母さん、ヒグマが私を食べている!」と電話で実況…人を襲わない熊が19歳女性をむさぼり食った恐ろしい理由