信念という名のエゴ

大久保がなぜここまで現役続行に固執したのか、鬼籍に入った今となってはわからないが、大久保には大久保なりの信念があったのだろう。ひとつ言えるのは、当時は調教師が大きな権限を持っていたということだ。

片や山路秀則は、今やほぼ絶滅してしまった「カネは出すけど口は出さない」という、いわゆる「お大尽オーナー」だったといえる。それゆえに大久保は、結果的に時期尚早だった天皇賞(秋)で復帰させたり、天皇賞(春)から高松宮杯参戦という奇手を使ったりという、“信念という名のエゴ”を通すことができたのではないだろうか。

それが競走馬にとって幸福かどうかはわからないが、少なくとも2020年代では、大久保の選択は非常識だとして当時以上に批判を浴びるだろう。

イクイノックスとの決定的な違い

ナリタブライアンと好対照といえるのがイクイノックス。ナリタブライアンは人間のエゴによって引退のタイミングを引き延ばされたが、イクイノックスは同じ人間のエゴでも逆に余力があるうちに早めに引退することになったからだ。

2022年に天皇賞(秋)と有馬記念のG1を連勝したイクイノックスは、翌23年の初戦に選んだドバイシーマクラシックで先手を奪うと、世界の強豪たちを寄せ付けず圧勝した。これによって、競走馬の能力を数値化したレーティングで世界ランキング1位となったイクイノックスは、その後も宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップを制した。

総獲得賞金は22億1544万6100円となり、アーモンドアイの19億円超を抜いて国内歴代トップに立った。天皇賞(秋)の走破タイムは1分55秒2。従来の記録を0秒9も上回るJRAレコードだった。競馬のタイムには公式の世界記録というのはないが、2000メートルでは1999年9月26日にチリの3歳G1レースで牝馬のクリスタルハウスがマークした1分55秒4を上回る世界最速だった。

レース中の馬と騎手
写真=iStock.com/Sportlibrary
※写真はイメージです

ここで動いたのが、イクイノックスを生産したノーザンファームだった。その代表の吉田勝己は、1分55秒2という驚異的な走破タイムに驚くとともに恐怖を感じていた。速く走れば走るほど能力の高さを誇示できるが、その半面、スピードに追い付かず肉体が悲鳴を上げる可能性がある。つまり、一歩間違えば大きな故障を起こしかねない。

天皇賞(秋)を制した時点でもイクイノックスのランキングは世界1位。最悪の事態が起きる前に種牡馬入りさせたい――そう願うのは当然だった。