筋を通すことで知られてきたエリート集団「条約局」
このように振り返ると、長年日露関係の最前線に立ち、外交上のやりとりや経緯に通暁していた外務官僚こそが「総理、ちょっと待ってください。二島返還を急ぐことが本当に国益に適うのでしょうか? 択捉と国後を見捨てていいのですか?」と声を上げるべき立場にあったのではないだろうか。
実際、ロシアとの折衝に携わってきた省内の心あるロシア専門家等からは、「なぜここまで一方的に譲歩しなければならないのか?」「これまでの積み上げをないがしろにするのか?」との声が上がっていた。
第二次安倍政権の後半期、特に2016年12月の長門会談をはじめ日露交渉が本格化した際の外務省事務当局のライン、すなわち、事務次官、政務担当外務審議官、欧州局長のいずれもが国際法局(旧条約局)出身者だったことは特筆に値する。のみならず、同局で担当官だけでなく、首席事務官、課長及び、又は局長まで務めてきた面々でもあった。外務省にあって条約局は筋を通すことで知られてきたエリート集団だ。地域担当の地域局が目の前の相手国との関係を慮って政治的な妥協に走りがちなことを戒める役割を担ってきたのが条約局であった。
その昔、1972年の日中国交正常化当時、条約局長であった高島益郎は国際法と条約に従った正論を押し通したと言われる。そして、それが故に、時の周恩来中国首相から「法匪」と呼ばれ、ついには「こういう有能な人物が欲しい」とまで言わしめたという、まことしやかな逸話が語り継がれてきた。
「上に行くほど、首相に唯々諾々と話を合わせてしまう」
仮にそのような条約局のDNAが生きていたのであれば、日露領土交渉の展開は違ったものになっていたのではないだろうか。彼らこそ、若い担当官時代から日露交渉に深く関わり、四島返還という日本の従来の主張が歴史的にも国際法上も正当であることを省内外で繰り返し主張してきた面々だった。にもかかわらず、レガシーづくりに勤しむ政治指導者に対して意見具申することがなぜできなかったのか、というのは国民からすれば正当な問いかけだろう。
交渉に深く携わってきた省内幹部からは、「局長、外審、次官と上に行けば行くほど、首相に唯々諾々と話を合わせてしまう」とのぼやきを聞かされたこともある。そこには「法匪」の背骨も矜持もなかったのだろうか。
彼らが担当官の時に上司の条約局長であったのが、ロシアに対する冷徹な観察と厳しいアプローチで知られてきた故丹波實元ロシア大使(2016年死去)だった。前記の東京宣言を含め、着々と布石を打ち、歴史の不正義を正すべく四島返還で領土問題を解決すべく精魂を傾けてきた侍であった。1956年以来、数十年にわたって営々と築き上げてきた成果が一顧だにされることなく、同年の共同宣言のラインに引きずり戻されてしまった領土交渉。どのような気持ちで後輩の交渉を見守っていたのだろうか? 泉下の丹波大使に聞いてみたい。