「終活」は「死ぬための計画」である

でも、人生プランの中で、なぜか多くの人々が見逃している人生の一大イベントがあるのです。なんだかわかりますか?

私たちの誰もが必ず通るものですが、そのことについてきちんと将来の計画を立てられている人は、ほとんどいないのです。

私たちが必ず経験するのに将来の計画を立てていないもの。

それが「死」です。

死を計画すると聞くと、なんだか末恐ろしく感じてしまいますよね。死ぬための計画をするなんて、まるで自殺するように思えてしまうかもしれません。

でも、実はこれ、「終活」と同じなのです。

終活という言葉であれば、だいぶ印象がやわらぐのではないでしょうか。それこそ、終活なら取り組んでいるという方もいらっしゃるかもしれません。

話し合う老齢夫婦
写真=iStock.com/PonyWang
※写真はイメージです

人生の終盤に差しかかると、身近な人の死に立ち会う場面も自然と増えていきます。親の死、兄弟姉妹の死、配偶者の死、友人・知人の死……。

「同窓会をするたびに人数が減っていくよ」
「兄弟姉妹で生きているのはもう自分だけだよ」

そんな言葉もよく聞きます。自分にもいつかこんなふうにこの世を去る日がくるかもしれないと、通夜や葬儀を通して自身の葬式のイメージをする機会もあるのではないでしょうか。そろそろ、終活をしないとなあ、と漠然と思っている方もいるかもしれませんね。

「自分が死んだ後の計画」をすれば準備万端?

さて、一概に「終活」といって、みなさんがイメージすることは何でしょうか。

「どんな葬儀にするか考えておく」
「葬式の費用を貯めておく」
「お墓の用意をする」
「いざというときに、連絡をしてもらう人のリストを作る」
「片づけや不要なものの処分、身辺整理をしておく」
「財産の整理をする」

こんなふうに自分が死んだ後に、残された人が困らないよう事前に準備をすることが「終活」のイメージではないでしょうか。

私の母も「葬式では好きな曲をかけてほしい」と自分の葬式のイメージを私に伝えてくれたことがあります。母はさだまさしさんのファンで、「この曲を流して」とCDをかけて教えてくれました。

こんなふうに、どんなお葬式にしたいかを周りに伝えることも終活の1つといえます。

ですが、私が母から聞いている終活は、たったそれだけです。実際にそのときが訪れたら、私は大変困ってしまうでしょう。

しかし、もし母がすでに葬式やお墓の準備、片づけや財産の整理などの終活を完璧にこなしていたとしても、残された家族が困ることに変わりはありません。

なぜなら、終活は自分が死んだ後の計画だけでは不十分だからです。