まさかのときに備え、自分の考えを伝える

人生の最後の10年は、多くの方が健康に生きられない可能性が高いとわかりました。しかし、だからといってその10年で誰もが必ず病気になるわけではありません。人によってはもっと早く、もしくは、もっとずっと遅いかもしれません。

まさかのときが、いつ自分の身に降りかかるのかは誰にもわからないですよね。

でも、ピンピンコロリが理想だからと、まさかのときを想像せず何の準備もしてこなければ、いざというときに困ってしまうのは誰でもなく自分自身なのです。

「どうして私がこんなことに」「まさか、こんなことになるなんて」。そんなふうに、いざそのときがきたら、現実を受けとめられない人は多いです。

病気や死は誰にでも訪れるものだとわかっているのに、そうなったときにどうしたいのかを考えてこなければ、混乱してしまうのは仕方のないことです。

ですが、動揺し現実から逃げてしまうと、最期をどう過ごしたいのかを考える余裕がなくなってしまい、あれよあれよと残された日々は消えていき、その人らしい最期を迎えることができなくなってしまいます。

病気になったとき、寝たきりになったとき、余命わずかになったとき。

自分がいつまで治療を続けたいのか。最期は好きなように過ごしたいのか。余生を過ごす場所はどこにしたいのか。まさかのときに備えて、考えておきましょう。

天国に旅立てたはずが「ただ生かされるだけの日々」

たとえば、こんなことがあったとします。

あなたは今年90歳になります。大きな病気をせずに、自宅で家族と暮らしてきましたが、お正月に大好きなお餅を食べていたところ、喉に詰まらせてしまいました。飲み込むことも吐き出すこともできず、息ができずに、やがて倒れてしまいます。

そばにいた家族は大あわてで応急手当てをしながら救急車を呼びました。要請から5分後に救急車が到着しました。

幸い餅は取り除くことができましたが、その頃あなたはもう虫の息で、天国への階段を上り始めています。

愛する夫と女性の死亡
写真=iStock.com/KatarzynaBialasiewicz
※写真はイメージです

朦朧もうろうとした意識の中であなたは、「大好きなお餅で死ねたなら御の字だわ、長生きして家族に囲まれながら幸せな気持ちで天国に旅立てる」と思うかもしれません。

でも、そんなあなたの気持ちを知らない家族は、あなたを助けようと必死で救急隊員に「お願いです、助けてください」と懇願します。

救急隊員は直ちに心臓マッサージを開始し、救急車に乗せて病院に向かいます。その途端、あなたの天国への階段は外されてしまうのです。

気がついたときには、病院のベッドの上。

人工呼吸器が口につながれ、話もできず、身体を動かせない状態です。心臓マッサージの影響で肋骨が折れ、身体は痛みで引き裂かれそうになっています。

でも、苦しいとも痛いとも言えず、目も開けられず、ただ機械と薬で生かされるだけの日々が始まってしまったのです。

あなたは「お餅を食べて死ねるなら本望だったのに、どうして私を助けたんだ」と、終わりの見えない治療の中で、いつしか家族を恨めしく思ってしまうかもしれません。