そのとき私は「そうか、では原作になるべく忠実に作ったほうがウケがいいだろうな」と無意識に考えていた。それは純粋なモノづくりの精神というより、スポンサーに対する「忖度」や「配慮」であった。視聴率を獲ることに関しても同様だった。「通常よりも高いCM枠を買ってくれた」スポンサーのためだと考えていた。それは、クリエイティブセンスとはまったく別の感覚だ。
テレビ番組は人間によって作られる。だからこそ、そこには様々な思いと考え方が交錯する。そしてテレビ局は、スポンサーを大事に思うあまりに、その気持ちを斟酌して忖度しようとする傾向があることを指摘しておきたい。
「相手の気持ちになってものごとを考える」ことは悪いことではない。だが、テレビ局が考える以上にスポンサー企業は社会の反応や動き、そして市井の感情や意見に敏感であることを忘れてはならない。
視聴者のニーズからどんどん離れている
過剰な忖度は禁物だ。スポンサー側からすれば、「そんな忖度は不要」ということかもしれない。テレビ局が勝手にやったことと言われてしまえば元も子もない。
テレビ番組を提供するスポンサー企業は多額のカネを出している。よい企画を選び、その都度、決断している。「いいもの」だから買ってくれるのだ。そこには信頼関係もある。スポンサーに買ってもらえるように制作現場は、いい作品を生み出してゆかなければならない。制作費を出してくれるスポンサーは決して「打出の小槌」ではないということを番組作りに関わる一人ひとりが肝に銘じる必要がある。
スポンサーだけでなく、有力芸能事務所や自民党や総務省などの政府に対する忖度による問題も噴出している。ジャニーズ性加害問題や放送法を巡る問題である。
だが、テレビ局というものはそういった齟齬や乖離を生み出してしまう特性を持っている。多くの人が集まる集合体だからだ。意見や考え方も多様で、統一を図るのが難しい。また、近年、優秀な人材の流出やリテラシーの低下が起こり、組織としての構造にもほころびが生じてきている。
「美談」や「感動」が視聴者を惹きつける、という思い込み
テレビ局は「国家的イベント」と親和性が非常に高い。先に挙げたオリンピックの例だけでなく、3月5日に放送された日本テレビ開局70年スペシャルドラマ「テレビ報道記者 ニュースをつないだ女たち」も「国際女性デー(国際婦人デー)」に合わせて放送されたものだった。