「会計」で経営を測定できるという思い込み
バブル崩壊後の状況について見ていきたいと思います。起点となった年は1990年です。この年はバブル崩壊とともに、東西冷戦終結による東側諸国(ロシア、中国など)の西側への市場参入が始まった年と、ほぼ重なります。これにより日本の大企業は中国への市場参入(直接投資)を始め、デフレが日本に流入し始めたのです。
はじめは、安い人件費を目当てに利益を目論んでいたのでしょう。しかし実際にはその後の長い年月をかける間に、日本は経済的にゆでガエルの状態になっていきました。プラザ合意以降の円高も相まって、中国からのデフレの輸入は、主に人件費に対する下げ圧力に作用し続けました。そのために非正規雇用を生む結果となっていったのです。
1990年以降の日本の大企業の中で、企業価値を創り出していた企業は二桁の数に過ぎませんでした。日本の企業数(法人個人を含めて)は370万社程度といわれていますが、その大部分が(利益は出ていても)価値創出の点ではマイナスであったと思います。
日本では「会計」を用いて経営を測定できるという思い込みがあるようです。虫眼鏡では野球観戦ができないように、会計は価値創出を測定する道具ではないことから、機会損失の垂れ流しを長いあいだ見過ごしてきました。
「失われた30年」はいつまで続くのか
失われた30年を語るとき、さまざまな要因が挙げられますが、経済衰退を長期化したとどめの一発は、時を選ばず不動産を叩き売った不良債権処理でした。しかしその後、市況は持ち直したのですから、国家が強制的に不動産を処分させ、外資の手に引き渡したその理由がわかりません。
失われた30年は、残念ながらこれからも長期に続くと予想されます。それにはいくつか理由が考えられますが、ひとつは産業の新陳代謝が進まないからです。
『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」のごとく、価値を創出できない企業は退場し、また新たな企業が生まれていくことが資本主義経済の基本です。アメリカは軍事技術(インターネットなどIT)を民間に転用し、それが功を奏して経済を牽引したのに対して、日本は価格差異性という中世に生まれたビジネスモデルに固執し中国へ依存し続けました。
日本政府は30年もの間、一貫してその水の流れを塞きとめてきたのです。
私たちはそうした官製不況の煽りをいまも受け続けています。
本章で示す機会損失が長期に続くその根拠となるメカニズムや方程式について、詳しくお知りになりたい方は、ぜひ拙著『EVA MONEY ミリオネアの思考軸』をご一読ください。