「学び」の流れ

学びの意欲を語るときに「理解できたときの喜び」を挙げる人も多いのですが、この喜びが意欲として機能するのも、あくまでも「未熟であることへの不全感」を感じている人になります。自分の未熟さに漠然とした不安を感じている。不安を解消するために、何かを学んだ結果、未熟さが解消され、目の前がひらかれるような感覚を持つ。これが「学びの流れ」です。もちろん、いったん未熟性が解消されたとしても、今度は「一段階成熟したからこそ見える未熟性」がまた目の前に立ち現れることになります。この繰り返しの体験群が「学び」であるというのは、勉強に限らず、あらゆる成長の機会に共通するものです。

学校の授業で手を挙げる小学生
写真=iStock.com/recep-bg
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自身の未熟性から目を逸らしてしまう…

私が危惧するのは「ネガティブな自分を認められない」という状態になると、こうした「学び」の基本的な過程自体が生じなくなるということです。

「ネガティブな自分を認められない」とは、言い換えれば「自身の未熟性から目を逸らす」ということです。自らの未熟性から目を逸らす人にとって、学校は「未熟であるという不全感」を解消する場ではなく「耳にしたくない情報を与えられる」ところになりますし、教師は「未熟であるという不全感から解き放ってくれる導き手」という尊敬の対象ではなく、「不快な情報を送ってくる人間」に成り下がってしまいます。

不登校の要因として「学校が面白くない」「勉強ばかりさせられる」といった意見も耳にします。そのために学校は「魅力ある学校にしよう」「わかりやすく教えよう」「子どもが自らの学習内容を選択できるようにしよう」などとあの手この手を打っています。

もちろん、そのような学校側の工夫は大切ですが、「学びの受け手」である子どもたちの「学びに対する基本的なスタンスの問題」が学びの意欲を阻んでいる可能性を冷静に考えてみる必要があるのではないでしょうか。