郊外の住宅地から都心のマンションに転居する人が増えている。不動産事業プロデューサーの牧野知弘さんは「かつてのニュータウンは住民の高齢化が進み、アクセスも不便で退屈しがちだ。そのため、現役世代に買った郊外の一軒家を売って便利な都心のマンションに移り住む人が増えている」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、牧野知弘『なぜマンションは高騰しているのか』(祥伝社新書)の一部を再編集したものです。

住宅街
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バブル期に流行った「住宅すごろく」

私は以前、三井不動産というデベロッパーに勤めていました。大学卒業後に入った銀行はわずか3年で退職。ボストンコンサルティンググループでの修行を経て(私にとっては「人生の修行」と言えるものでした)、三井不動産の門を叩きました。

平成バブルの絶頂期、社員の多くは「家は持つもの。早く買うもの」という無言のプレッシャーのもと、また「賃貸アパート→社宅→分譲マンション→郊外一戸建て」という「住宅すごろく」が信奉されていたため、若い社員たちはマンションを買い、先輩たちはマンションを売却して、郊外にある戸建て住宅を買い求めていました。

当時、多くの社員が買った戸建て住宅が、三井不動産と相鉄不動産(相模鉄道関係会社)が相鉄線沿線に開発・分譲した、緑園都市と山手台(共に神奈川県横浜市泉区)です。当時の分譲価格は、敷地面積180~200m2・建物面積110~130m2で、緑園都市が1億3000万円程度、山手台が8000万~1億円程度でした。

ゴールになっていたニュータウンの現在

けっして安くはありませんが、当時は「地価は毎月上がる」と言われており、実際、所有マンションの値段も上がっていたため、マンションの売却益をてこに、戸建て住宅を、住宅すごろくの「あがり」として購入していました。

丘陵地を切り崩して造成したこのエリアは、新興住宅地として当時から注目されていました。そこに、実際に開発した会社の社員がこぞって住むということは、このエリアの成長可能性が大いにあると考えられていたからです。

ところが今、購入した先輩方にお目にかかると、ほとんどの人が都心のマンション住まいです。「緑園都市(山手台)の住宅はどうされたのですか」と聞くと、多くの人が「売った」と答えます。売却時期はおおむね2000年代です。確かに、私の年賀状リストからも、この2つの地名が姿を消しています。