「矛盾」を当たり前として生きる
社会心理学者のメルビン・ラーナーが1960年代に発表した理論に「公正世界仮説」があります。「世界は、良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある」という思い込みのことです。
努力すれば明るい未来が開けるという思い込みは、受験勉強や自己投資など、前向きな生き方の原動力になります。
しかし、公正世界仮説を無条件に信じていると、難病になったのは本人(あるいは先祖)が何か悪いことをしたからという理論が成り立ってしまいます。
他にも、新型コロナ感染症のパンデミックを、人類の自然破壊や「正しい教え」に従わない報いと説明するカルト教団の言い分も通ってしまうなど、危険な面もあります。
世の中の矛盾についても、「矛盾があるのはおかしい」と信じて疑わない人がいます。しかし、「人はかならず死んじゃうのに、どうして生まれるの」といった子どもが抱く素朴な疑問を始めとして、この世には矛盾が佃煮にできるほどあります。それを当たり前のこととしてとらえ、楽しんだほうが、ずっと心軽く生きていけます。
「あの人は幸せそうでいいなぁ」と思ったら
私たちにネガティブやマイナスの感情が起きるのは、自分の都合通りになっていないときです。「苦=自分の都合通りにならないこと」は仏教以前のインド哲学で解明された定義ですが、いつの世にも通じる真理でしょう。
言いかえれば、私たちは自分の都合通りになってさえいれば幸せで、不幸を感じるのは自分の都合通りになっていないから、ということになります。ですから、自分に都合(願い)がある限り、幸も不幸もあるのは当たり前なのです。
「あの人は幸せそうでいいなぁ」と、うらやましがっている場合ではありません。幸せかどうかは本人が決める問題で、他人が決めるものではないからです。
“あの人”は“あの人の願い通りになっている”から幸せそうなのか、単にあなたの価値観に合わせると幸せそうなのかをチェックする余裕は持っていたいものです。
自分の都合が自分の努力で実現可能なら努力すればいいのです。しかし、自分の努力だけではどうにもならないと思うなら、自分の都合を少なくするよう努めるしか、幸せになる方法はないでしょう。