紫式部や清少納言も書き残した「陰陽法師」の存在

ここからは、平安貴族社会において呪詛を請け負う「陰陽法師」あるいは「法師陰陽師」と呼ばれる集団がいたことがわかる。道摩法師が播磨出身だったことから、同国には多数の「陰陽法師」がいたらしい。そもそも僧侶たちこそが、「陰陽道・前史」の段階では「陰陽」「暦」「天文」の担い手であったのだから、彼らのなかに「陰陽師」の呪術、占術に長けているものがいるのも、なんら不思議ではない。

斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)
斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)

それにしても「陰陽法師」または「法師陰陽師」とは、いかなる存在なのか。そう、言葉のとおり法師でありながら陰陽師の仕事をしているものである。たとえば『今昔物語集』には、「陰陽師をる法師」、すなわち僧体の陰陽師たちが複数登場している。それは陰陽寮とは無関係な、民間や地方に在住する陰陽師であった。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、紙の冠を被って河原で祓えをしている法師陰陽師が、妻子を養うためにやむを得ず行っていると弁解するエピソードが載っている。また『春日権現験記絵』には、法師陰陽師らしい人物の姿が描かれている。

彼らが呪詛の請け負いだけではなく、祓えにも携わっていたことは、清少納言『枕草子』の「見苦しきもの」のリストのなかに、「法師陰陽師の、紙冠して祓したる」ことが出てくるし、あるいは『源氏物語』の作者の紫式部の歌集『紫式部集』の「……法師の紙を冠にて、博士だちをるを憎みて」という題詞のついた歌からもわかる。

裏で「呪い」も請け負う陰陽法師たちを貴族女性は嫌った

晴明クラスの上級陰陽師を雇うことができない中下級の貴族たちは、法師陰陽師たちを雇って祓えをしてもらっていたことが繁田氏の研究によって明らかになった。そうした光景が日常的に見られたのだろうが、紫式部や清少納言などの貴族女性たちの目には、嫌悪や軽蔑の対象でもあったようだ。法師陰陽師たちが、裏では「呪詛」を請け負うことが、彼らの常識となっていたからだろう。

それにしても、なぜ陰陽寮官人とは別に僧侶たちが「陰陽師」の仕事をしたりするのだろうか。それは晴明のような「陰陽師」が、陰陽寮という公的な役所機関を離れたあとも、自前の「陰陽師」として活動して、それが貴族社会に受け入れられる時代になったことと対応するだろう。法師陰陽師とは、じつは晴明たち「職業的陰陽師」のもうひとつの姿、裏の姿であったともいえよう。そして、彼ら法師陰陽師の末裔まつえいたる民間の陰陽師たちこそが、晴明伝承を語り伝えたものであった。

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