「陰陽師」とは官職ではなく個人的な依頼を受け祭祀を行った
さらに晴明が行ったその「泰山府君祭」は、前日まで予定されていた密教修法の「焰魔天供」に代わるものとして執行されたことが確認できる。その背景には、泰山府君祭が密教との競合・吸収のなかから晴明自身によって開発された儀礼であることが推測できるのである。
「泰山府君」とはもともとは中国の民間信仰にルーツをもつ、延命長寿をもたらしてくれる「神」であった。それが晴明の陰陽道に取りこまれて、あらたな神格をとげていったのだ。このときの泰山府君祭の効験によって、貴族社会に泰山府君信仰が広がり、とくに藤原行成は晴明の指示にしたがって、早朝から泰山府君への祈りを行っていたこともたしかめられる。
ところで『今昔物語集』をはじめとした説話集などでは、安倍晴明は当代一流の陰陽師と呼ばれるように、彼が「陰陽師」であることは誰も疑わないだろう。だが、その場合の「陰陽師」とは、陰陽寮という役所のなかの官職名ではなく「官制に関わらない職業としての陰陽師」と認識するのが正しいようだ(日本史学者・山下克明氏による)。
藤原道長の外出日時を選ぶなどフリーの占術師として活動
晴明が「陰陽師」として、一条天皇の外出に際して反閑という呪術を行ったり、道長の外出するときの日時を選定したり、また泰山府君祭、玄宮北極祭という延命長寿を祈る祭祀を執行しているときは、彼はすでに陰陽寮を退官し、主計権助(中央財政を管轄する役所の名目上の次官)、左京権大夫(朱雀大路の東側を管轄する役所の名目上の長官)、大膳大夫(朝廷の宴会料理を担当する役所の長官)など、別の役所の官人となっていた。にもかかわらず晴明は「陰陽師」として占いや呪術、祭祀を天皇や貴族たちに頼まれて行っていたのである。
ようするに陰陽寮をやめたあとのフリーの祈禱師、占術師として活動するのが「陰陽師・安倍晴明」の実像であったといえよう。陰陽寮を離れたあとも、彼が「陰陽師」として人びとの依頼、期待にこたえていたのは、陰陽寮という役所とは無関係に、自らの術や技でのみ活動しうる、「術法の者」として生きていたからだろう。まさに「道の傑出者」「陰陽の達者」としての陰陽師である。