唯一、「めっちゃ楽しかった」のは設計の課題。北川さんはいつも、曲面が多く、ぐにゃぐにゃと柔らかな「和菓子のような建築物」を構想し、「自分の頭のなかをアウトプットしやすいし、一番慣れている」という理由で、和菓子の素材で模型を作った。講評会の後の打ち上げでは、同級生や教授に「和菓子の家」を振る舞った。

最終学年になっても、卒業したら和菓子職人に、という思いは変わらない。しかし、父親に「そろそろ、和菓子職人に……」と相談すると、毎回「まだ早い」と説得された。

「建築を深めれば、もっと人に求められる和菓子ができるようになる」
「洋菓子を学んだら、もっと面白い建築のような和菓子ができるかもしれないぞ」

インスタントハウスが生まれた経緯を話す北川教授
撮影=白石果林
インスタントハウスが生まれた経緯を話す北川教授。

暗中模索の教員生活

そのたびに、「なるほど、確かにそうかもしれない」と感じて大学院の修士課程、博士課程と進んだ。博士号を取得して「これでようやく……」と思っていたところ、親身に指導してくれた名古屋工業大名誉教授、若山滋氏に声をかけられて、2001年、助手として名工大で働き始める。

ここで自分でも意外に感じるほど学生に教えることにやりがいを感じるようになり、2007年には准教授に。傍から見れば順調すぎる教員生活ながら、「ずっと暗中模索でした」と語る。

「若山先生は、とても高尚に背筋が伸びるようなハイカルチャーのことを語られるんですよ。狂言の話をしたり、源氏物語や徒然草から引用したり。僕は29歳の時(2003年)から自分の研究室を持たせてもらったけど、若山先生のようにはなれないし、どうしようかなと悩んでいました」

能登半島地震の被災地の様子1。
筆者撮影
輪島市内ではあちこちで信号が傾いていた。

「サブカルに詳しい建築の人」を揺さぶった言葉

霧のなかを抜け出すきっかけをくれたのは、元AKB48の篠田麻里子だった。2005年に秋葉原を訪ねた際、当時まだAKB48劇場内のカフェ「48's Cafe」のスタッフだった篠田麻里子が路上でチラシを配っていた。それを受け取った北川さんは、吸い込まれるように劇場に足を運んだ。そこには、熱狂的に声援を送る男たちがいた。

「なんだ、これは……」初めて見る光景に圧倒されながらも、北川さんは「秋葉原って面白い」と感じたそうだ。ちなみに、2005年は秋葉原のメイド喫茶が話題を呼んだ年で、新語・流行語大賞には「萌え~」がトップ10入りしている。秋葉原独特の熱気に触れた北川さんは、マンガ喫茶の研究を皮切りに、サブカル路線に舵を切った。研究対象は、出会いカフェ、ラブホテル、パチンコなどに広がっていった。そのうちに、「サブカルに詳しい建築の人」として知られるようになっていった。