冬の寒さは厳しく、氷点下15度を下回ることもあった
しかし近衛首相の軽井沢滞在は、基本的に夏の週末に静養するだけだった。新体制の構想を練ったときでも、40年7月6日から16日まで滞在したにすぎない。自殺する直前の45年11月27日から12月11日にかけて例外的に初冬の軽井沢に滞在したことがあったが、それでも半月間の滞在にとどまった。1カ月あまりにわたって軽井沢に滞在した首相は、鳩山が初めてだった。
ただ軽井沢にも難点があった。東京から行く場合、距離的には那須よりやや近いものの、群馬県と長野県の県境で急勾配の碓氷峠を越えなければならないため、那須より所要時間がかかった。しかも上野から黒磯に直通する東北本線の列車や、東京から小田原に直通する東海道本線の列車に比べて、上野から軽井沢に直通する高崎線や信越本線の列車の本数は、はるかに少なかった。冬の寒さも厳しく、氷点下15度を下回ることもあったが、別荘の集まる旧軽井沢地区にはほぼ温泉が出なかった。
昭和天皇や吉田茂は、似たような別荘の集まる軽井沢よりも、広い敷地を有していて温泉が引かれた那須御用邸や小涌谷の三井別邸のほうを好んだ。軽井沢を好んだのは、昭和天皇よりも家庭教師のエリザベス・ヴァイニングに連れられて同地を初めて訪れた皇太子明仁(現上皇)のほうだった。重光もまた、軽井沢より温暖で周囲に同様の別荘が少なく、温泉の湧く奥湯河原のほうを好んだ。
鳩山一郎、昭和天皇、吉田茂が眺めていた景色は全く違った
軽井沢は標高こそ高いが、碓氷峠を越えれば信越本線の軽井沢駅に近い旧軽井沢地区を中心に平原状の地形が広がっていて、高低差200メートルほどの離山を除けば凹凸が少なく、別荘を「高い塀で囲いこむ」こともなかったために別荘族どうしの行き来がしやすかったのに対して、那須や箱根は地形の高低差があった。那須御用邸の本邸は東北本線の黒磯駅より約400メートル、小涌谷の三井別邸は箱根登山鉄道の箱根湯本駅より約500メートル、それぞれ高いところにあった。
黒磯駅から那須御用邸までは、比較的ゆるやかな坂道が直線状に続いた。昭和天皇の侍従だった入江相政は、「那須の景観は、日本のほかのどこにもないような見事なもので、御用邸は那須岳の裾の、海抜六百余メートルの所にあるが、それから裾の関東平野まで、そのままの傾斜でなだれ込んでいる。だから初秋になって空気が澄んでくると、遠く筑波山までが手にとるように見える」と述べている(『濠端随筆』、中公文庫、2005年)。
一方、箱根湯本駅から小涌谷までの国道はカーブが多く、勾配もきつかった。箱根外輪山に囲まれた三井別邸では、那須御用邸に匹敵する眺望を得ることはできなかった。鳩山一郎、昭和天皇、吉田茂は、同じく55年8月に東京を離れ、関東周辺に滞在しながら、全く異なる風景を眺めていたことになる。