※本稿は、原武史『戦後政治と温泉 箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
3日間で軽井沢、那須、箱根を往来した重光葵外相
1955(昭和30)年8月19日から21日にかけての3日間、重光葵外相は東京を空け、軽井沢、那須、箱根と別々の場所に向かい、現首相、天皇、前首相に訪米の目的を報告し、広く意見を交換した。東京の首相官邸や皇居、あるいは神奈川県の大磯にあった吉田茂の本邸(現在は旧吉田茂邸として公開)で行われるべき会談が、東京から100キロ前後離れた避暑地や温泉地で連日行われたのだ。
それらの会談は、訪米という大きな公務の前にしておくべき、もう一つの公務だった。32年の第一次上海事変の際、爆弾で片脚を失った重光にとっては、ハードな3日間だったに違いない。重光は、自分より大きな権力や権威をもつ(と考える)3人が滞在していた場所に、連日通ったことになる。
3人そろって東京にいないときにわざわざ訪れることもあるまいと思われるだろうか。だが彼らが帰京するのを待つわけにもいかなかった。鳩山は55年8月2日から9月27日にかけて、天皇は同年8月1日から8月27日にかけて、そして吉田は正確な期間はわからないものの新聞や『吉田茂書翰』(中央公論社、1994年)や『吉田茂書翰 追補』(中央公論新社、2011年)所収の書翰から察するに少なくとも同年7月下旬から9月上旬にかけて、それぞれ軽井沢、那須、箱根に長期滞在したからだ。
東京、軽井沢、那須、箱根を往来した政治家や官僚たち
その間に、政治家や官僚らが東京と軽井沢、那須、箱根の間を往来した。
重光のほかにも、8月14日には外務官僚の朝海浩一郎が小涌谷を、8月18日と23日には栃木県知事の小川喜一と元国務大臣兼情報局総裁の下村宏が那須を訪れている(『朝海浩一郎日記』、千倉書房、2019年および『昭和天皇実録』第12、東京書籍、2017年)。また7月31日には小涌谷に近い湯の花ホテル(現・箱根湯の花プリンスホテル)で堤康次郎・前衆院議長と池田勇人・自由党総務が立ち会って吉田と緒方竹虎・自由党総裁が約4時間会談し(『日本経済新聞』1955年8月1日)、9月10日には重光に随行して訪米した日本民主党幹事長の岸信介が軽井沢を訪れ、翌日に鳩山と会談している(『鳩山一郎・薫日記』下巻)。
現在の感覚では、到底あり得ない話である。2022年8月を例にとれば、岸田文雄首相は17日から19日まで伊豆長岡(静岡県伊豆の国市)の温泉旅館・三養荘に滞在しただけだったが、それでも野党から批判を浴びた。現天皇は那須、葉山、須崎のどの御用邸にも滞在しなかった。いまとなっては、1955年夏の軽井沢、那須、箱根に濃密な政治空間が成り立っていたことを想像すること自体が難しくなってしまった。