専門学校に入ると、周りは高校を出たばかりの18歳がほとんどで、基礎的な内容の授業はすべて短大で学んだことだった。「おれがダントツ」と自信満々だった若者が、「周りとレベルが合わないし、学校つまんねえ」とテングになるのに、時間はかからなかった。毎日ジャージで過ごし、学校に行かず、家でゲームをするか、雀荘でマージャンをするか、クラブに行くか。
それでもやはり手を動かすのは好きで、スタイル画を描くファッションイラストレーションにだけは夢中になった。それが評価され、女性向けファッション誌『CUTiE(キューティ)』などでファッションの挿絵の仕事をもらうようになると、ますます学校から足が遠のいた。仕事が次第に忙しくなり、最終学年にあたる3年生の秋に休学してから、学校に行かないまま卒業を迎えた。
「特待生は学校の名前をあげるための人材なんで、学校からしたら、なにしてくれてんねんって話ですよね。今考えたら一番ダサいのは自分なんですけど、努力している人をバカにして、世の中を白けた目で見てました」
清水寺の観光案内所で働いたフリーター時代
「東京は格好つけて、背伸びしてるやつばかり。性に合わない」と、卒業してすぐ京都に帰郷。友人のツテで、風呂なし、トイレと炊事場は共同の安アパートで暮らしながら、ファッションイラストレーションからも離れ、ひたすら抽象画を描くようになった。それだけでは食えないから、清水寺の観光案内所で音声ガイドの端末を貸し出すアルバイトをしていた。
「いつか個展をして、世の中に認められるんだ」と思いながらも、自分はなにをしているんだ、このままでいいのかという疑問と不安が、泡のように絶え間なく湧き上がってくる。
「先も見えないし、本当に怖かった」というフリーター生活を始めて半年ほど経った頃、兄から連絡があった。「友人の仏師が十一面観音を造っていて、衣文の柄を描きこんだり、彩色できる人を探している。どうだ?」という話だった。
もともとお寺の天井画や屏風画にも興味があった宮本さんは、なにをするのかよくわからないまま、指定された日に清水寺近くの工房を訪ねた。その工房は兄弟で営まれていて、兄は仏師、弟は位牌師(位牌を専門に造る職人)だった。そこで初めて仏師の仕事に触れた宮本さんは、一瞬にして心を奪われる。
「ファッション業界は毎年新たな流行が生まれるから、デザインも消費されていくんですね。仏師の世界は1000年後、2000年後のことを考えて物づくりしてるんですよ。自分が死んだ後、自分の仕事がどう評価されるか、職人の意地で仕事をしているんです。それを目の当たりにした時、ものづくりのスケールがまるで違うなと。ボロボロのアパートで迷いに迷っていた時に、空からピカーッと光明が差したような気がしました」