ファッションデザイナーを目指した
宮本さんは1981年、京都の伏見区で生まれた。幼い頃の景色で印象に残っているのは、町のいたるところにあった石造りのお地蔵さまだ。
「僕らはまんまんちゃんと呼んでいて、その数はコンビニより多いと思います。母からは、いつも『悪いことをすなよ、まんまんちゃんが見てるで』と言われていました。ずっと、日常のなかに当たり前のように仏さまがいる生活でしたね」
母親の「まんまんちゃんが見てるで」の言葉によって宮本さんは良い子に……育たなかった。少年時代は悪ガキで、「やんちゃ」が少しずつ収まったのは、小学校4年生の時に野球を始めてから。当時を振り返り、「エネルギーを持て余していたんでしょうね」と苦笑する。
一方で、絵を描いたり工作をするのが好きで、色鉛筆を渡されれば広告の裏に何時間も絵を描いているような子どもだった。物心つく頃には「ひとつのことをちまちまと時間をかけてやることが、すごく心地よい」と自覚していた宮本さんは、中学生になるとひとつの目標を定めた。
「オシャレが好きだったんですよ。いい古着を探しては自分なりにコーディネートして、中学3年の時にはメンズノンノ(ファッション誌)の街角スナップに載ったこともあります。自分が職人気質だとわかっていたから、卒業文集には将来の夢としてファッションデザイナーと書きました」
美大受験に向けて画塾に通うため、高校2年生の終わりに野球部を退部。学校の成績が良かったこともあり、指定校推薦で京都芸術短期大学のファッションデザイン科に進学した。
「人と同じことをするのが嫌い。奇をてらったことをして注目されるのが好き」な宮本さんは、短大で自分の着想を伸び伸びと表現する時間と場所を得た。普通に着ることができないようなオブジェのような服を作ったり、身体をデフォルメしたようなマネキンに立体裁断した布を張り付けて造形したりして、「今考えたら、服で彫刻してたと思います」。
当時は、革新的、挑発的なアイデアで知られる世界的デザイナー、ジョン・ガリアーノや天才と呼ばれたデザイナー、アレキサンダー・マックイーンのオートクチュールの工房で働きたいと夢を抱いていたという。
自信満々だった特待生の堕落
しかし、短大で2年間学んだだけの20歳に、そんな実力がないこともわかっていた。「まだ働きたくない。もっと自由でいたい!」という気持ちもあった。そこで、「授業料免除の特待生なら親も認めてくれるだろう」と、東京にあるバンタンデザイン研究所のファッションデザイン専攻科を目指す。
一次試験で作品を提出する際、短大で作った巨大なマネキンを三体持ち込んだ宮本さんは、特待生を目指して200人以上が受験するなか、「優等生みたいなおとなしい作品ばっかや。おれがダントツやな」と思っていたそうだ。その手応えは確かで、倍率200倍超の試験を突破したのは、宮本さんひとりだった。