妊娠5カ月で舞台に立った笠置、頴右は出産前に急逝する

やがて出産が近づき、当時の芝区葦手町にあった桜井病院に入院していた笠置の元へ、5月19日午前10時20分、吉本頴右が急逝したとの知らせが入る。当時は奔馬ほんば性結核と呼ばれていた“不治の病”が、24歳の命を奪った。彼の死は、二人の女性を悲しみと失意のどん底に突き落とした。来月早々に出産を控えた身重の婚約者と、最愛の一人息子に将来を託していた母、大阪の吉本興業社長・吉本せい(1889~1950)である。

吉本せい
吉本せい(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1948年10月27日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

兵庫県明石生まれの林せいが、大阪上町の荒物問屋・吉本吉兵衛(本名・吉次郎、通称・泰三)に嫁いだのは1910(明治43)年。家業そっちのけで寄席道楽に明け暮れていたという吉兵衛が、北区天満にあった寄席「第二文藝館」を買収して妻のせいとともに寄席経営に乗り出したのが1912年4月1日(現在の吉本興業創業日)。二人は小寄席の端席を次々と買収し、「花と咲くか月と翳るかすべてを賭けて」との思いから「花月」と名づけ、大正末には大阪だけで二十余りの寄席を経営し、東京へも進出する。

吉本興業を一代で築き上げた吉本せいは息子の交際に反対

経営手腕は吉兵衛よりせいのほうが上手うわてだったようで、彼女は今日まで“伝説の女興行師”と語り継がれる。ちなみに1958年、山崎豊子が吉本せいをモデルに小説『花のれん』を書き、第39回直木賞を受賞している。翌年には東宝で映画化され、主演の淡島千影(吉兵衛役は森繁久弥)は大阪女のたくましさとせつなさを好演した。

砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)(潮文庫でも発売中)
砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)(潮文庫でも発売中)

せい夫婦は2男6女をもうけたが、長男以下5人の子どもが次々と夭逝した上に、次男(頴右)が生まれた翌年の1924年、吉兵衛が37歳の男盛りに急逝してしまう。せいは34歳の若さで未亡人になったのである。やがて昭和に入り、関西発祥の松竹と東宝が二大勢力となって興行が発展する中にせいは堂々と割って入り、業績を伸ばしていく。華やかな舞台の裏では熾烈しれつな競争が繰り広げられるのだが、せいは女の細腕で大阪女の“ど根性”を発揮した。そんな彼女が一人息子の頴右をいかに溺愛し、自分の後継者として期待していたかは理解できないことではない。

1943年頃に出会った頴右と笠置シヅ子が、翌年には結婚を約束するまでの仲になったことはせいの耳にも入る。このとき、せいが二人の結婚に猛反対したという話はおそらく事実だろう。頴右はまだ学生で、おまけに笠置は9歳も年上である。OSSKやSGDで評判の歌姫だったとはいえ、笠置シヅ子もまた、かつてせいが日々面倒を見、育て、ときには札束で引き抜き合戦を繰り広げてきた同じ芸人であり、やり手興行師から見れば“商品”なのだ。