通説以上の大量の鉄砲が武田軍を襲った
通説は、長篠合戦で使われた鉄炮の数を『信長公記』が記す「千挺」または「三千挺」(『亜相公御夜話』も「御鉄炮三千挺」と記す)とするが、これは高松山東部から有海原までの5人の「御奉行」が使った数である。
武田の先衆が向かった先には通説以上の鉄炮が「段々」に構えていたのではないか。
ここに武田軍先衆は無数の銃弾を浴びながら突撃を繰り返し、虚しく壊滅させられていった。信長は昨年の伊勢長島で実行した「根切」をここに再現したのだ。
今回「根切」の宣言を2度受け取った藤孝も長島に参戦していた。布陣地を策定したのは2月に現地へ派遣されていた佐久間信盛だろう。昼過ぎ頃、決勝の望みをかけた別働隊が崩壊したことで武田軍は総崩れとなり、勝頼も撤退を開始する。
長篠合戦は開戦から「三時(六時間)ばかりたゝかふて」(『軍鑑』巻一四)、先衆の突撃が破綻することで、ファルサロス会戦のように勝負がつき、追撃戦に移行した。