1560年、織田信長は今川義元を桶狭間の戦いで破る。なぜ信長は圧倒的な戦力差を埋められたのか。戦国史研究家の乃至政彦さんは「突如降り始めたゲリラ豪雨が大きな要因だ。これがなければ、信長は死んでいただろう」という――。(第1回)

※本稿は、乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)の第二章「織田信長という男」の一部を再編集したものです。

馬に乗る将軍
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです

いまだ真相が明らかではない桶狭間合戦

ここから日本史上屈指の謎と見られている“桶狭間合戦”の内実に迫ってみよう。史料にあることを単純素朴に読み進めれば、次の経緯で展開したと考えられる。

まず信長の擁立する尾張の新守護・斯波義銀が政変を企んだ。永禄3年(1560)、桶狭間合戦の少し前ぐらいのことである。義銀は義元が自ら尾張国境を攻めると聞き、これを恐れた。

斯波家と今川家は長年の宿敵である。リアルに考えて、尾張一国を平定したばかりの信長が、駿河・遠江・三河を支配する義元に勝てる道理などない。もし信長が敗れたら、斯波家の族滅も考えられる。そこで自ら義銀は御家存続のため信長を売り渡すことにした。

首尾は密かに進められる。義元は尾張および三河北部に4万5000人の大軍を進めたというが、実際の人数は『定光寺年代記』に「尾州鳴海庄ニテ駿州軍勢一万人」が敗北したとあり、全軍合わせて1万前後であっただろう。

なぜ籠城策をとらなかったのか

義元の作戦は、尾張大高城を救出し、自軍の本拠地としたあと、そこから海路を使って尾張北部へ侵攻することから始まる。先手勢はその先で尾張独立勢力の服部友貞と合流、さらに尾張一向衆(「河内二ノ江ノ坊主」)が、揖斐川経由で美濃の延暦寺系僧兵団を招き入れ、清洲に向かい、斯波勢が彼らに呼応して動くという流れだったようだ。

尾張一向衆の僧兵は、服部氏と同盟関係にあって同郡一帯を支配していた。この地は海面から美濃へと連なる尾張揖斐川があり、美濃揖斐川も一向衆勢力が根を張っていた。今川軍の侵攻が本格化すれば、僧兵たちは河川を伝って続々乱入する予定だったのだろう。

だが、この計略は信長の知るところとなる。義銀の家臣から漏洩したのだ。信長は軍議の席で、義銀と「一味同心」して籠城策を進める「御家老之衆」を無視して、雑談のみに興じる態度を取った。そして密かに行軍途中の義元を奇襲する決意を固めた。

籠城などすれば彼らに寝首を搔かれよう。しかるに行軍中の側面を衝けばどのような大軍でも間違いなく混乱させられる。そのような機会に恵まれる可能性は低いが、そこに勝負をかけたのだ。