なぜか『信長公記』には記述がない

善照寺砦の別働隊が陽動を仕掛けていたことは、記主不明の『松平記』巻二(家康実母を「我等〔=記主〕父」が護送する記述あり。慶長末年成立ヵ)にも「善照寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来り、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り」と伝わっている。ただし、佐久間信盛の活動は『信長公記』首巻に記述されていない。

信盛は後年、信長に「信長代になり、三十年遂奉公内に、佐久間右(信盛)衛門無比類働申習候儀、一度も有之ましき事」と叱責しっせきされ、追放の憂き目に遭った。

桶狭間の活躍を詳述すると、この追放が非道に見えてしまうので、その活躍を削除したのだろう。

勝利できたのは奇跡に等しい

戦争の勝敗が一瞬でつく場合、諸隊の配置、施設と装備、奇襲の有無が決定要因として働くケースが一般的である。桶狭間の信長はこれら全ての条件が揃えられていた。

乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)
乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)

陽動によって分散した今川軍へ別働隊と本隊が挟撃を仕掛け、豪雨により飛び道具が使用不可となり、山地の防衛能力が極限まで低下する。そして迅速なる急襲を仕掛ける──。

どれかひとつでも欠けていたら戦死したのは信長だっただろう。今川軍は「弓・鑓・太刀・長刀・の(幟)ほり・さ(指)し物ハ算ヲ乱すにこ(異)とならす」と、もはや近接戦武具すら扱えない状態となり、完全に士気阻喪していた。

運は天にありというが、その運をつかんだのは信長の決断であった。永禄3年(1560)5月19日、晴天のもと、義元はあえなく討たれ、全軍「惣崩」となった。信長は勝利したのだ。

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