今川軍の優位性が一気に失われた
今川軍は桶狭間山の野営地で雨晒しに遭っていた。信長はすでに中島砦を出ており、その近く「山際まで御人数」を接近させていたのだ。そこで強い西風を伴うゲリラ豪雨が降り掛かった。
『信長公記』首巻の文章と構成を見る限り、別働隊は義元から見て北面に、信長の本隊は西面にいたと考えられる。豪雨のため、織田軍も今川軍も、火縄が濡れて鉄炮を扱える状況ではなくなったことだろう。
予期しない雨礫に人々は苦痛を覚え、具足も重くなり、湿気に弱い弓矢は扱いにくくなっていた。大木を倒すほどの豪雨なら野営地も形を失っていたと考えられる。
ここに今川軍は設備と装備の優位を失った。そこに信長が「空晴ルを御覧し」てから鑓を手にとり、「すハかゝれ」と大声をあげて土煙を立てて突進した。今川軍は豪雨のため一部武具と施設が扱えなくなった。
それに加えて信長と別に先行する別働隊が沓掛方面で陽動を展開したことが織田軍勝利の要因となったと思われる。
最側近・佐久間信盛の別働隊
さて、件の別働隊とは何か? それは信長が清洲から善照寺砦に移り、さらに中島砦へ移ろうとするところで描写されている佐久間信盛の隊である。
信長は善照寺砦の信盛と合流したが、「御人数備えられ、勢衆揃させられ、様体御覧し」とあるように、信盛は自身の隊を戦闘態勢に整えて信長に披露している。これは「御覧し」とあるので、自分の手勢を再編成しているのではない。信長はあくまで見ている側で、実行したのは別人である。他人が他人の部隊を編成しているのだ。
これがもし信長の部隊なら、砦に入った信長がわざわざ他人に少数の兵を再編成させるだろうか。今は急を要する状況で、しかもこれから自分で扱う少数の部隊である。他人に再編成させる余裕はどこにもない。信長が、信盛が信盛の隊列を揃える様子を見届けた描写と受け止めるのが適切だろう。
信長は自身の動員した兵員を整列させ、その御前で信盛が人数を再編する動きを監査した。隊列を整えているのだから、籠城する準備ではなく野戦準備である。信長は決死の勇士たちの出陣準備を厳粛に見届けたのだ。ここから信長は移動を開始する。
ゲリラ的戦術を使いながら、別働隊の戦いぶりを軸として、“その応援に向かう”“挟撃を狙う”“撤退する”などその場の状況に応じて生じる選択のうちから、最適解を模索しながら勝利を得るつもりで動き始めたのである。