勝頼の慢心

だが──その長篠城は、信長から送られた鉄炮と兵糧が備えられていて、5月18日まで持ち堪えた。これこそ信長の望む展開であった。

5月13日、信長は嫡男・信忠とともに岐阜を出て、かなりの大軍で三河に向かった。同月18日に信長は、三河の「志多羅したら之郷(=設楽郷)」でも一段と低い極楽寺山(茶臼山ヵ)に布陣して、その際「段々に御人数三万ばかり」の自軍を「敵方へ見えざる様に」して身構えた。

信忠は新御堂山に布陣した。家康はその前面にある敵から視認しやすい高松山(あるいは弾正山)に布陣して、前列に滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・佐久間信盛を並べ、家康と一益の隊前に馬防柵を構築して守りを固めた。武田勝頼は長篠の付城である鳶巣山とびがすやま砦を出て西に進軍し、有海原あるみはら前に布陣した。

そしてこの5月20日、駿河にいる家臣・今福長閑斎に宛てて「【意訳】心配して飛脚を送ってもらい感謝している。こちらはほぼ思い通りになっているので、安心してほしい。信長と家康が長篠の後詰に出てきたが、何ほどのこともなく対陣している。敵はなす術を失って切羽詰まっているので、野戦を仕掛けて決着をつけようと思う。こちらは順調である」と書き送っている。

信長と家康が無策で怯えていると見ていたのである。

武田攻めを優先する姿勢

さて、その信長はどうであっただろうか。

ちなみに、金子氏は織田軍が馬防柵を構築し、信長がここから一歩も出ることなく交戦するよう指導したこと、また鉄炮を大量投入して兵の損耗を戒めたこと、そして織田本陣を敵から見えにくい形で布陣していること、これらの状況から「ここで武田軍と本格的に干戈かんかを交えるつもりはなく、たとえそうなっても、できるかぎり本願寺戦のために兵を温存しておきたかったのでは」と推測しており、防戦に努めるつもりだったと見ているようだが、私は別の解釈があると思う。

その理由は、ふたつ。

ひとつは、信長が謙信に書き送った条書で、「五畿内表をおろそかにして、信・甲にせい(精)を入候」と、大坂本願寺より武田攻めを優先する姿勢を明言しており、この言葉を翻して“甲・信をおろそかにして、五畿内表にせいを入れる”ような構えを見せるとは考えにくい。