秀吉嫌いの宣教師フロイスは「秀頼誕生に世間は笑った」

江戸時代中期成立の書物だけではなく、淀殿らと同時代人も、淀殿と大野治長の「密通」について書いています。毛利氏に仕えた内藤隆春の書状(1598年10月1日付)があって、そこに、お拾(秀頼の幼名)は淀殿が密通してできたのではないかとの風評が書き留められているのです。ただし、隆春は、鶴松や秀頼が治長の子とまでは書いてはおりません。

淀君(茶々)の肖像画(画像=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
淀君(茶々)の肖像画(画像=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉の「子」に関しては、外国人も書物に記しています。戦国時代に来日し、信長や秀吉とも対面した宣教師ルイス・フロイス。

彼の著書『日本史』には、秀吉と鶴松について「かれ(筆者註=秀吉)には唯一の息子(筆者註=鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子どもを作る体質を欠いているから、その息子は彼の子どもではない、と密かに信じていた」「関白には信長の妹の娘、すなわち姪にあたる側室の一人との間に男子(鶴松)が産まれたということである。日本の多くの者がこの出来事を笑うべきこととし、関白にせよ、その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつての男女の子宝に恵まれたことがなかったので、子どもが(関白の)子であると信じる者はいなかった」と書かれているのです。

秀吉には子種がないと言われる中、淀殿だけが2回妊娠

秀吉と淀殿の間に生まれたはずの鶴松。しかし、秀吉には子種がないとして、多くの者が、秀吉の実子ではないと内心思っていたというのです。鶴松が生まれた天正17年(1589)当時は、秀吉の弟・秀長にはまだ子は生まれていなかったと推測されます(後に女子2人を授かる)。秀吉の甥の秀次には当時、女子はいましたので、フロイスの記述は正確ではありませんが、1589年段階の文章としては、大外れというわけではありません。

しかし、秀長や秀次は、子供を作っていますので「その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつての男女の子宝に恵まれたことがなかったので、子どもが(関白の)子であると信じる者はいなかった」という部分は、間違いとしなければなりません。

以上、資料から記したことは、世間の噂程度のものであり、そこからもってして、鶴松や秀頼が秀吉の「実子ではない」と結論付けることは慎重でなければいけません。秀吉は「女狂いは、自分の真似はするな」と甥・秀次に書き送るほど、女好きでした。側室も16人はいたとされます(もちろん、関係を持った女子の数はもっと多かったはずです)。にもかかわらず、正室・寧々(北政所)との間には子はできませんでしたし、多くの側室のなかで、秀吉の子を産んだとされるのは、淀殿だけです。