こうなると、どれだけブラックな環境であっても、「つらい」と思わずに日々をやりすごすことができるのです。これは、生き延びるために生物が培ってきた非常にパワフルな生存戦略で、多かれ少なかれ、私たちはこの「解離」を駆使しながら日々を過ごしています。

解離について知ることは、ストレスや休むことを深く理解するために不可欠です。これも過剰適応の一つの表現型といっていいでしょう。

このようなモードに入ると、何が自分に負荷をかけているのかはっきりと把握できなくなり、延々と体力・気力をがれ続け、しかもそこから離れようという強い意思を発揮することも難しくなります。

まさに「生けるしかばね」のような状態になってしまうのです。こうなると、もはや独力での解決はとても困難になります。

「他者のニーズ」を切り離さなければ、心は休まらない

仮に休みがとれたとしても、そこに応えるべき「他者のニーズ」があるうちは、それを満たすのに手いっぱいになってしまいます。

たとえば、休職して実家に帰ったとしても、親から「ああしろこうしろ」と要求を突きつけられてしまい、それに応えることに終始してしまうような環境であれば、休めていることになりません。

ですから、そうなる前に、まずは他人が自分に向ける「要求」からしっかり離れる必要があります。

人は、あらゆる他者のニーズから一定の距離をおいてはじめて、「自分のニーズ」に関心を向けることができるようになります。そして、当然のことですが、自分のニーズがわからなければ、いつまでたっても自分のニーズと他人のニーズのバランスをとれるようにはなれません。

自らが「過剰適応」にならないですむ環境を確保することは、正しく休むために非常に重要な要素なのです。

「レールから降りることの恐怖」が休む決断を妨げる

私はしばしば、心身の疲れが限界にまで達している人に、休職も含めた長期休暇が必要であることをお伝えするのですが、多くの方は長期休暇をとったり休職したりすることに対しても、恐怖感や抵抗感、罪悪感を持たれています。

それも当然のことです。先に述べたように「期待に応えなければという思い」や「人の役に立たなければという思い」に加え、「レールから降りることの恐怖」があるからです。

みなと同じように働いていること、与えられた役割をちゃんと果たしていることは「普通」のことであり、「普通」から逸脱しないでいられることが「安心」であり、それを守ることが「王道」の生き方であると信じている人はとても多いです。

ですから、そこから降りてしまうことには、ものすごく大きな恐怖が伴います。もう二度と戻れないのではないか、社会に不適合であるというレッテルを貼られてしまうのではないか、という不安がわくのです。

横断歩道を行き交う人々
写真=iStock.com/AzmanL
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