渡米のきっかけ

ピアノを始めたのは5歳のとき。高校生で映画のテーマ音楽を作曲するなど、早くから非凡な才能を見せてきた。18歳でヤマハとアーティスト契約を結び、女性3人のフュージョン・バンド「コスモス」として活動。独立後の87年、ちょっとした記念のつもりで、アメリカで自主制作したアルバム『水滴/A Drop of Water』が、思いがけず、アメリカの音楽業界で高い評価を受ける。それをきっかけに、アメリカに拠点を置いて音楽活動を始めることになるのだ。

デビュー4年後の91年には「全米オールスタージャズ・ツアー」のメンバーに選ばれ、ジェームス・イングラム、パティ・オースティンらと共演。翌年も再び選出されて、今度はチャカ・カーン、フィリップ・ベイリーらと全米を回った。

私が慶子さんと出会ったのは、その頃である。

当時、私はニューヨークに住んでいて、ラジオから頻繁に流れるケイコ・マツイの曲がお気に入りだった。ちょうど、ハーレムのアポロシアターでチャカ・カーンらと共演するコンサートがあると知り、会場へ。そこで見た彼女のステージに、ただただ圧倒されたのだ。

あどけなさの残る外見とは裏腹の、鬼気迫る演奏で客席を沸かせたかと思えば、一転して、心に染み入るようなピアノ・ソロを聴かせる。ブラックミュージックの殿堂で、共演するアフリカン・アメリカンの大スターたちがかすむほどの存在感を放った彼女に、割れんばかりの拍手と歓声が贈られたのである。

終演後、女性観客たちの陽気なおしゃべりに聞き耳を立てると、やはりケイコ・マツイの話題で持ち切りであった。「あの、アジア人のちっちゃな女の子、なかなかやるじゃないの! 気に入ったわ!」。彼女の音楽がこうしてハーレムのソウルをつかむ様子を、私は目撃したのである。

生活の基盤を日本に移したワケ

楽屋に慶子さんを訪れると、そこには幼い娘さんの姿も。聞けば、一緒にツアーを回っていて、共演者にもかわいがられているという。後日、取材に応えてくれた慶子さんは、オーラが消えて、いい意味で、拍子抜けするほど普通の人だった。控えめでシャイな印象すら受ける。そんな人柄にも感銘を受け、以来、折にふれて、日米で取材を重ねている。

その数年後、次女も生まれたが、学校教育はどうしても日本で受けさせたいと、長女の小学校入学を機に、生活の基盤を日本に。娘たちは祖母(慶子さんの実母)と一緒に暮らし、慶子さんは仕事があるときにアメリカに行くというスタイルを選んだ。

小学生時代の楽しかった思い出があるから、娘たちにも同じ体験をさせてやりたい――そんな親心だが、年に14、15回も日米を往復する生活は、体力的にも厳しかったに違いない。娘たちと過ごす時間を少しでも増やそうと、数日でもオフがあれば日本に飛んで帰ると聞き、そのタフさに驚いたものだ。

その頃、アメリカの音楽業界は、彼女を「アメリカのナンバーワン・女性キーボード奏者」と呼ぶようになっていた。

ジャズピアニストの松居慶子
 

北米以外でのコンサートも増えるなど、仕事は順調だったが、彼女は自身の成功に執着せず、「娘たちが明るく元気でいてくれるから、仕事を続けていられる。そうでなければ、すぐにでも仕事をやめます」と言い切っていた。「娘たちと自転車乗ってパン屋さんに行って、パンを選ぶ……。そんな時間がいちばん幸せなんです」と。