「多忙」は新しい基準になっている

想像してみてほしい。同僚に調子はどうかと尋ね、相手が「最高だよ。仕事は着々と消化しているし、未処理の書類ボックスには何も入っていない。理想的なワーク・ライフ・バランスを維持していて、8時間睡眠を取り、寝る前に読書する時間が30分もあるんだよ!」。

するとあなたは、頭がおかしいのかと言わんばかりの目で同僚を見るだろう。さらに悪い場合は、この人は怠け者か、野心がない人だと見なすか、または「忙しい」日々を送るほど優秀でも有能でもないのだろうと考える。

常に多忙だと感じること――少なくとも多忙だと発言すること――は新しい基準となっている。この価値観がどこから来たのかはわからない。ヴィクトリア朝時代の救貧院の倫理観の名残か、従業員を最大限に利用しようとする利用文化が発達したために必然的に起きたことなのか――この文化の下では、従業員は常に経営者の前で忙しそうにして、自分の価値を示さなければならない。

読者のなかには、厳しい生産性目標が定められていて、それに従って勤務評定、給料、上司の評価が決まる人もいるだろう。勤務時間中にあなたが「お金を稼いだ」時間数とそのクオリティによって、組織内での昇進・降格が決まってしまうため、常に忙しくなければならないと感じているかもしれない。

巨大なファイルの山
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忙しいことは決して珍しいことではない

だからわたしは、あなたが忙しそうな振りをしているのではないと理解している。また、うちのチームとわたしは、利用文化は古い労働観であり、(少なくとも今と同じ形では)今後も続くとは思えないということを、経営者に認識してもらおうと働きかけている。

サービス業に従事する人のなかには、たとえば棚卸しをしたり、店で顧客対応にあたったりしながら、スケジュールに休憩時間を入れて身体と心を休めなければと感じつつも、一つのタスクが終わったら急いで次のタスクに取りかかる人がいる。彼らはまさにフル稼働しており、多忙崇拝というわたしの冷淡な考え方を拒否するかもしれない。それでも、あなたにはその違和感に目をつぶっていいのかと疑問視し、経営者の近視眼のために、自分を犠牲にしないでほしいと思う。

みんな、いつだって忙しい。忙しいことは決して珍しいことではない。つまり「忙しい」はくだらない言い訳なのだ。

にもかかわらず、「誰にそんな時間があるのか?」といった言い訳を何バージョンも聞いた。適切なタイミングで実行可能なフィードバックをしろって? 「そうだね、そうしたいのはやまやまだけど、誰にそんな時間があるのか?」。チームのみんなの意見を聞いて、取り上げてほしいって? 「確かにそれは名案だけど、誰にそんな時間があるのか?」