三毛別事件を超える「日本最悪の獣害事件」の可能性

3つの事件が同じ熊の犯行だとすると、計8名もの人間を喰い殺したことになる。

三毛別事件を超える「日本最悪の獣害事件」であった可能性もあるのだ。

同一個体による凶行であったことを窺わせる状況証拠は、他にもある。

まず、3つの事件が隣接する地域で起こったことが挙げられる。

愛別町中央と剣淵町和寒東六線は、直線距離で15キロ程度。和寒川を支流とする天塩川流域と、愛別町が属する石狩川流域は山ひとつ隔てて隣り合っている。

さらに剣淵村の東、愛別村の北に接するのが、朝日村(現在の士別市)である。

この間に位置する山岳地帯を、ヒグマが悠々と行き来していたことは、当時の新聞記事からも知られるところである。

熊は「中年男性だけを食害」していた

もっと興味深い事実がある。

和寒の事件では父子が襲われたが、愛別町事件でも父子が狙われた。

しかも喰われたのは父親の豊次郎だけで、長男と母親には、まるで関心を示していないのである。

そして朝日村の事件で唯一食害された吉川も、働き盛りの37歳であった。

つまり加害熊がエサと見なしたのは、中年男性だけなのである。

エサと言えば、加害熊が、ヒグマの習性である「エサの隠蔽いんぺい」(笹の葉や土をかけてエサを隠すこと)をしていないのも共通している。これは加害熊がズボラであったというよりも、他の個体にエサを奪うことを許さない、巨大な個体の自信の表明とも受け取れる。

これらのことを整理して、筆者の推論を述べよう。

加害熊は、3つの事件現場から、それぞれ半径十数キロ圏内の山岳地帯を縄張りとする、山の王ともいうべき、巨大なオスのヒグマであった。

大正元年から始まった冷害凶作により、飢餓に駆られて里に下りてきた加害熊は、8月下旬、和寒で中野父子を見つけ、襲いかかった。彼の怪力を思わせる事実として、成人男性の死体を、山中深く、180メートルも引きずっていることが挙げられる。

これ以降、彼の補食原理は人間のオスが最上位となった。

同年11月、朝日村に移動した加害熊は、吉川と出会し、これを喰い殺した。「即座に噛み殺してその肉を喰い始めた」という状況が、すでに人間の味を知っていた事実を裏付けるだろう。さらに救助に来た村民4名を次々に襲った。彼らが食害を受けなかったのは、おそらく銃手6名が早々に到着したからだろう。

著者近刊『神々の復讐』(講談社)
著者近刊『神々の復讐』(講談社)

士別の猟師の追撃をかわし、根城に戻って越冬した加害熊であったが、翌年の大正2年は、前年以上の冷害凶作であった。空腹を抱え、いらだった加害熊は、忌み嫌う猟師の鉄砲を避けて南下し、9月に愛別村で熊澤父子を見つけ、襲いかかった。

もちろんこれは筆者の仮説に過ぎず、物証など一切ないし、関係者も鬼籍に入られ、残るのは状況証拠のみである。

しかしその可能性は高いと筆者は考える。

そしてそのように仮定すると、この加害熊は最大で8名を喰い殺した可能性のある、稀代の人喰い熊であったかもしれない。

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