もう1つの事件「和寒川事件」

2つの事件で計7名が喰い殺されたわけだが、事件はこれだけでは終わらない。

「朝日村事件」のわずか2カ月前にあたる、大正元年8月28日。

上川郡剣淵村の中野信明(44)が、長男勝男(14)と魚釣りに出かけた。

和寒川上流の河岸でミミズを掘っていると、大熊が現れ、2人は夢中で逃げ出した。

長男の勝男は約200間(約360メートル)ほど先の伯父宅に駆け込み難を逃れた。

だが、中野信明は子供より2間(約3.6メートル)ほど遅れてしまう。

村民が現場に駆け付け、約50間(約90メートル)西方に大熊がいるのを発見し、同日午後3時頃に射殺。

しかし中野信明は右大腿だいたい部から腰骨まで喰い尽くされ、白骨が露出した姿で発見されたという(『北海タイムス』大正元年9月1日)

当時の新聞でもおどろおどろしく報じられた
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当時の新聞でもおどろおどろしく報じられた

本当に「加害熊を射殺」したのか

この『北海タイムス』の記事では、「加害熊を射殺した」としている。

しかし、射殺されたのは、本当に加害熊だったのだろうか。

実はまったく別の個体で、本命の加害熊は、まんまと逃げおおせたのではないか。

そして、朝日村で4名、愛別村で3名を喰い殺すという、前代未聞の連続人喰い熊事件を引き起こしたのではないか。

筆者がそう考える理由は以下の通りである。

第1の理由として、人喰い熊の出現確率は極めて低いことが挙げられる。

北海道野生動物研究所の門崎允昭所長によると「現在の北海道の熊の生息数を、2千数百頭と仮定すると、1年のうちに人を襲うのはその内の1.2頭に過ぎない」という(『羆の実像』)。

これが事実なら、人喰い熊となる確率は0.05%に過ぎない。

また、明治初期の熊の生息数は「約5200~6030頭であったと考えられる」(『ヒグマ大全』)という。

これらの数字から計算すると、「朝日村事件」当時の北海道において、人喰い熊はたった3頭程度のはずだ。

その3頭の人喰い熊が、同じ地域に同時多発的に出現し、立て続けに3つの事件を起こした可能性は限りなく低い。むしろ同じ人喰い熊が複数の事件を起こしたと考える方が自然だろう。