まずはコンセプト、書く作業は最後

笠原は「書く」という作業を脚本家の仕事のうちで最終段階と定めている。「書く」のはストーリーづくりの最後に来る一要素でしかない。映画のシナリオでも「順列」がカギを握る。笠原は脚本を書くという仕事の順番を次のように定めている。

(1)コンセプトの検討
(2)テーマの設定
(3)ハンティング(取材と資料蒐集)
(4)キャラクターの創造
(5)ストラクチャー(人物関係表)
(6)コンストラクション(事件の配列)
(7)プロット作り

実際にプロットを書くのは最後の最後である。まず考えるべきはコンセプトとテーマ。それができてはじめて、資料を読み込み、背景となる土地に足を運び、人と会い……というハンティングに移る。そこからキャラクターを創り、キャラクター同士の人間関係を決めたうえで主な事件を配置し、いよいよプロット作りにとりかかる。

笠原はストーリーづくりの最初にくるコンセプトとテーマをきわめて重視している。笠原によれば、コンセプトとは「戦略の凝縮した表現」。これは僕が『ストーリーとしての競争戦略』で戦略ストーリーの起点として「コンセプト」を強調しているのと同じ話だ。

『総長賭博』というタイトルで新作を書けと命令されたとき、ヤクザ映画はすでにマンネリ化しつつあった。そこに新風を吹き込むにはどうするか。それを考えることこそがコンセプトである。たまたま酒を飲みながらテレビで見ていた『アンタッチャブル』のメリハリがきいたリアリアズムに笠原はヒントを得た。そこからセミ・ドキュメンタリータッチのやくざ映画というコンセプトが生まれる。

テーマとは、コンセプトに沿って客に伝えるべき映画の「観念」である、と笠原は定義する。最終的には人物のセリフや、モノローグや、ナレーションに落ちるわけだが、テーマをあからさまに表出するのは邪道で、客に以心伝心するものでないといけない。

コンセプトとテーマが固まったら、取材と資料蒐集である。ここでいっきに仕事が具体に飛ぶ。このように、笠原にとって創作とは、具体と抽象をいったりきたりするなかで進めていくものだ。ストーリー、プロットをつくる前に、モデルとする土地に行ったり、人物を調査したりね、閲覧可能な文献を集めたりして、ネタをとにかくいっぱい仕込む。テープに頼るにせよ、メモを取るにせよ、集めてきたものはノートに整理しなおして家で見直す。そうすることで聞き流していた大切なポイントや、話の食い違いが見えてくる。

映画はやくざなり
[著]笠原和夫(新潮社)

データを頭に叩き込むと、コンセプトとテーマが一層リアリティを帯び、深みを増してくる。しかし、だからといって、調査や資料の読み込みがコンセプトづくりに先行してはならない。先にあるべきはあくまでも本質を荒括りにするコンセプトとテーマでなくてはならない。

僕が尊敬する経営者の一人に日本マクドナルドの原田泳幸さんがいる。原田さんがよく言う言葉に「リサーチから始まる戦略はモノにならない」というのがある。いきなり客観的で具体的なデータから始めてしまうと、戦略ストーリーの細部や断片ができるばかりで、骨太のストーリーにならない。笠原の話と一脈通じる考え方だ。

さて、ハンティングが終わり、具体的な素材がふんだんにそろった。ここで初めてキャラクターとキャラクター同士の人物相関図(ストラクチャー)に着手する。コンセプト、テーマ、ハンティングと順番にやってくれば、おおよそのストーリーは見えている。しかし、そこですぐストーリーに入り込むと人物がストーリーに都合よくつくられてしまう。それでは「引っ掛かりのないノッペラボーなドラマ」になる。それを避けるために主人公含め主要人物数名の「履歴書」を改めて作ってみよ、と笠原は言う。ここにも「具体と抽象の往復作業」がある。

笠原が脚本を書く作業のなかでいちばん好きだったのが、この「ストラクチャー」を考えることだった。ストラクチャーが弱いと緊張感がなくダラダラした印象になるが、あまり複雑にして収拾がつかなくなってもいけない。『総長賭博』という映画は、「音楽的なストラクチャー」を目指した。音楽のように観客を高揚させたうえで解放し、最後は交響曲を聴き終った時のようなカタルシスを味あわせる。そのためにはどういう人間関係がいいかを考えていった、という。

ストラクチャーが空間的な配置図だとすれば、時間軸でのストーリーの流れが「コンストラクション」である。話のなかに大小の事件をどう配列するかという問題だ。笠原は、「起・承・転・結」のそれぞれの区分のなかで、山場を「序・破・急」のリズムで刻んでいくことを心がけていた。そうやってラストに向かって、テンションが高揚するようにもっていく。

このコンストラクションができてから、ようやくプロット作りに入る。映画の世界だと、プロットはだいたい200字詰め10枚くらいでできるという。これが「何がどうしてどうなった」というストーリーの骨格となる。よけいな情緒的な修飾は不要。この枚数に収まらないときは、ストーリーがきちんと出来ていないということであり。逆に10枚に満たない場合はドラマの組み方が浅いのだと笠原は指摘している。この辺、いかにもプロのセンスである。

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