「自分が何かしら乗っかれるもの」を見つける

笠原のキャリアも紆余曲折に満ちたもので、やたらとコクがある。日本大学を中退し、志願して海軍に入隊するが、その年に終戦。軍隊から戻ってくると、日本は敗戦直後の混乱の真っただ中にある。銀座の連れ込み宿のマネージャーを振り出しに、仕事を転々とする。ひょんなことから、昭和28年に東映の宣伝部に出入りするようになり、宣伝プレスのストーリーづくりの仕事を与えられる。映画のストーリーそのものではなく、出来上がった脚本をプレスシート用にまとめていく仕事だ。笠原はこの仕事を毎週2本、4年で400本やった。これが意図せざる下積みになる。社内のシナリオコンクールで一席になり、だんだん脚本家として飯が食えるようになっていく(この辺のいきさつは『「妖しの民」と生まれきて』に詳しい)。のちに昭和屈指の映画脚本家と称された人も、出だしは連れ込み宿のマネージャーである。案外どんな仕事もこんな感じで、偶然の出会いの延長にキャリアなるものが築かれていくのではないかと思う。

本人はもっと抒情的な映画をつくりたかったらしい。しかし、依頼がくる仕事のひとつひとつに真剣に取り組んでいるうちに、いつの間にか任侠映画の脚本家として名前が売れていく。やがて実録路線でヤクザ映画に新風を吹き込み、『仁義なき戦い』でその名を映画史に刻むことになる。
「やくざ映画のライターという仮面をかぶってやってきた。最初は、生活のために引き受けただけだった」と、笠原は明言している。その一方で、「本当に面白いものを書くために、自分が何かしら乗っかれるものを、探す必要があった」とも言っている。笠原の初期の主要な仕事に『日本侠客伝』がある。ヤマ場に来る流れ者の殴り込みのシーンで有名な作品だ。その流れ者の心情に笠原は流れ流れてやくざ映画のライターになった自分自身を重ねた。「自分が何かしら乗っかれるもの」がシナリオに力を与え、歴史に残る名場面となった。作品と商品のジレンマのなかで、笠原はときにはこのように自分の心の奥底にある芯をむき出しにして脚本に叩きつけた。

『映画はやくざなり』は引退後の回想録であり、この時点では「映画には未練は持っていない」と笠原は言い切っている。「脚本はしょせん仕事……」というスタンスを感じさせる。こういう割り切った感じというか、突き放した感じがないと、どんな仕事も長くは続けられない。その一方で、しかし、仕事に対して何かしら自分の中から湧き上がってくるものがないと続かないのもまた事実だ。一見すると仕事に対してクールで覚めている。ところがその奥底にはやたらにアツい情熱がある。かと思うと、仕事の渦中でもどこか自分を客観視している。このバランスというかコントラストが絶妙だ。ある道のプロや一流の経営者に共通の特徴である。