たまには会社を騙して作りたいものを作る

駆け出しのころは、美空ひばり映画の脚本を書たりしていて、はじめからヤクザ映画に関心があるわけではなかった。笠原を任侠映画へと引き込んだのは、プロデューサーの俊藤浩滋である(覚えている方もいるかもしれないが、この連載の第12回(>>記事はこちら)と第13回(>>記事はこちら)でとりあげた『おそめ』の主人公、上羽秀の夫だ)。この不思議な男が不思議な成り行きで映画プロデューサーになり、1963年に『めくら狼』という映画をつくることになった。そこで「おまえ、ちょっとこれ、書いてみないか」と声をかけたのが笠原だった(それにしても当時のこの辺の日本映画界のネットワークは眩暈がするほど濃いものがある)。

こうして自分の意思とは関係なくヤクザ映画の世界に入った笠原は、時流に乗って次から次へと任侠モノの脚本を手がけていく。その中でも、本人として納得のいく作品が名作、『総長賭博』だ。当時の日本映画はもう衰退期に入っていた。しかし東映という会社は依然として「映画=娯楽の王様」時代のやり方を引きずっていた。プロデューサーの俊藤浩滋も相変わらず「とにかく客がいっぱい入る映画がいい映画」という考え方全開で映画を製作していた。

笠原の力作である『総長賭博』、本人はその出来栄えを自負していたが、商業的にはあまり成功しなかった。しかも、公開が終わってしばらくたってから三島由紀夫(当時は旬の旬の人)が絶賛したりしたものだから、岡田茂(東映撮影所の名物所長)が、「ゲージツでは客は入らんぞ!」とかえって怒り出し、笠原はさんざんな目にあった。こうした成り行きの中で、笠原は会社には「すみません……」と謝る姿勢をみせる。しかし、実際は、監督の山下耕作と目配せをして「してやったり」とほくそえんだという。

それでよかったのである。「たまにはこうやって会社を騙して自分の作りたいものを作る必要がある」と笠原は書いている。この人のプロフェッショナリズムの核にはこうした考え方がある。

プロは一筋縄ではやっていけない。以前もこの連載で強調した話だが、仕事と趣味は異なる。趣味は自分を向いた活動だ。自分のためにやればよい。しかし、それでは仕事にならない。自分以外の誰かのため、人の役に立たなくては仕事とはいえない。仕事で自己実現を果たす。仕事で世の中に貢献する。いずれも結構なのだが、自分の内発的な動機と自分以外の誰かのためにならなくてはならない仕事との間にどういう折り合いをつけるのか、ここに問題がある。

脚本家である笠原には、自分の基準で心底よいと思える、書きたいホンがある。しかしそれだけで突っ走ってしまえば、商売にならない。「作品」なのか、それとも「商品」なのか。このジレンマが映画づくりには終始つきまとう。