恩人の妻の末子はモネの子という説も

実は、パトロンの妻アリスが産んだ末の男の子はモネの子だという説もある。オシュデが妻子をモネのもとに残して失踪したのには、もしかするとこのような複雑な恋愛関係があったのかもしれない。さらに、最愛の妻カミーユは、次男を出産した1年半後に32歳で亡くなってしまった。死因は結核とも、中絶に失敗したためとも言われている。

ナカムラクニオ『こじらせ恋愛美術館』(ホーム社)
ナカムラクニオ『こじらせ恋愛美術館』(ホーム社)

40代のモネには、もう画家として成功するしか道がなかった。とにかくたくさん絵を描いて、売りまくるしかなかったのだ。覚悟を決めたモネは、連作を描くようになる。大家族を養うためには、同じモチーフをとにかく描いて、量産するしかなかった。

同じテーマをずらして繰り返し描くというのは、日本の浮世絵や屛風びょうぶ絵の影響も大きい。ひとつの画題を様々な天候や季節、異なる時間で表現し、描きわけようと試みたのだ。実際にモネは、浮世絵のコレクターとしても知られているが、歌麿、北斎、広重など292枚も所有していた。構図や色彩だけでなく、北斎漫画などからも「連続性のある絵画表現」を学んでいた。葛飾北斎の「富嶽三十六景」のように「富士山」という同じモチーフを連作する浮世絵の様式がヒントになったのかもしれない。

ジャポニスムの様式美とターナーの自然美を融合

連作というアイデアには、もうひとつ大きな源流となるきっかけがある。1870年、普仏戦争が始まるとモネは、徴兵を避けるためロンドンへと逃れた。そこで運命の出会いが待っていた。イギリスを代表する画家ターナー(1775~1851)の風景画だった。

ターナーは、霧や大気をぼかして描く独特な描写で知られている。単なる写実ではなく、自然の移ろいゆく光を「感性で描く」スタイルだ。今では印象派の画家に比べると人気は低いが、むしろ、ターナーこそ「誰よりも早い印象派」だったと言っても過言ではない。モネは、ジャポニスムの反復する様式美とターナーの自然美を実験的に融合させようとしたのだ。