「積みわら」「ポプラ並木」「睡蓮」など、さまざまな連作で知られる印象派絵画の巨匠、クロード・モネ。美術家のナカムラクニオさんは「家族を養うためには、同じモチーフをとにかく描いて、量産するしかなかった。だがそれが、モネの芸術的成功にもつながった」という――。

※本稿はナカムラクニオ『こじらせ恋愛美術館』(ホーム社)の一部を再編集したものです。

クロード・モネ『睡蓮(アガパンサス)』、1915~26、油彩、キャンバス。クリーブランド美術館蔵
クロード・モネ『睡蓮(アガパンサス)』、1915~26、油彩、キャンバス。クリーブランド美術館蔵(PD-old-100-expired/Wikimedia Commons

穏やかな画風の背後にある壮絶な経験

「光の画家」クロード・モネは、色彩豊かな風景を眺め、その画風と同じように穏やかな人生を過ごした――そんなイメージはないだろうか。

しかし実は、貧困による自殺未遂、愛する妻の早すぎる死、パトロンの夜逃げなど、壮絶な経験をしている。むしろ、その黒歴史や心に潜む深い影こそが、モネの絵具の下地となってキャンバスの絵の具を光らせているのだ。そして、奇妙な大家族を養わなければいけないという、現実的な側面もあった。

クロード・モネ、1840~1926(絵=ナカムラ クニオ)
クロード・モネ、1840~1926(絵=ナカムラ クニオ)

パリで画家の活動を始めた26歳のモネは、7歳年下のモデル、カミーユ・ドンシューと恋に落ちた。美しきカミーユは、10代から絵画のモデルとして仕事を始め、ルノワールやマネにも愛されたミューズだった。モネの代表作「散歩、日傘をさす女性」のモデルとなった女性としても知られている。

しかし、身分が違うと両親には猛反対され、生活費の仕送りも断たれてしまう。モネは、とにかく貧乏だった。町の肉屋にまで借金があり、作品を差し押さえられそうになった時は、200点もの作品を自ら切り裂いたという逸話もある。残った50点ほどの作品は、まとめて二束三文で売り払われた。