昭和天皇の意向

すでにイギリス人のブライスがいながら、アメリカ人の家庭教師を必要とする背景には当時の時代的な理由もあったろう。確かに同じ英語圏でもイギリスとアメリカでは政治体制も異なるし、そこから派生する王室に対する考え方も違う。

とはいえ、戦後の日本の占領の主力は米国にあり、被占領中の昭和天皇の意識はイギリスよりもアメリカに向かっていた面は否めない。アメリカ従属型の戦後天皇家のはじまりにふさわしい判断ともいえた。実際、若き日の平成の天皇の人格形成にあずかったヴァイニング夫人の影響力は大きかった。

また皇室からの信頼も篤く、当初は1年任期の予定であったが4年におよび、米国帰国後も平成の天皇との交流は続いた。

ヴァイニング夫人は東宮仮御所で平成の天皇に英語の個人レッスンを受け持つほか、学習院中等科で毎週3時間の英語の授業も担当した。

平成の天皇が在籍する中等科1年の「一組」での最初の授業で、ヴァイニング夫人は生徒全員に英語の名前をつける方針を考えた。

一般の人間のひとりである空間をつくった

その理由は、1つに生徒の名前を自分が間違って発音しないですむ、2つに今までの英語の教科書では子どもの名前が太郎や花子など日本名だが、英語の発音を教える必要があった、そして3つは、皇太子にも英語の名前をつければ「一生に一度だけ、敬称で呼ばれず、特別扱いも受けないという経験を彼(皇太子)はもつことになる」、の3点にあったという。

小田部雄次『天皇家の帝王学』(星海社新書)
小田部雄次『天皇家の帝王学』(星海社新書)

こうした方針のもとヴァイニング夫人はアルファベット順に並べた生徒名簿をつくり、はじめての授業に臨んだのであった。

自己紹介後、まず生徒に名前を尋ねてから、このクラスでの名前を与えていった。アダム、ビリー、と次々に命名していき、皇太子のところで「あなたの名前はジミーです」と伝えた。

ところが皇太子は「いいえ、私はプリンスです」と答えた。夫人は「そうです、あなたはプリンス・アキヒトです」と同意し、「それが、あなたの本当のお名前です。けれどもこのクラスでは英語の名前がつくことになっているのです。このクラスではあなたの名前はジミーです」と説明した。

皇太子は楽しそうに微笑み、ほかの生徒たちもつられて笑ったという(工藤美代子『ジミーと呼ばれた日』)。

ヴァイニング夫人はゲームのルールを説明するかのように、皇太子に特別扱いされない一般の人間のひとりである空間をつくりあげたのである。

この「一般の人間のひとりである空間」の経験は、その後の平成の天皇の「帝王学」あるいは「象徴学」による歩みに大きな影響を与えたともいえよう。

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