天皇陛下と秋篠宮さまをめぐっては、考え方の違いがたびたび報じられてきた。静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは「兄宮と弟宮の関係に緊張が生まれることは歴代の皇室でもあった。それは、天皇になるための『象徴学』への取り組み方が兄弟でまるで違うからだ」という――。

※本稿は、小田部雄次『天皇家の帝王学』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

二重橋
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「兄宮と弟宮の緊張関係」はたびたびあった

古代における壬申の乱は、兄弟による皇位継承の危うさの例とされるが、歴代天皇家の皇位継承において兄弟相続が常に危ういものであったわけではない。神話の時代ではあるが、23代顕宗天皇と24代仁賢天皇は兄が弟に先に皇位を譲った例でもあった。

以後も、兄弟相続は数多くあり、そのたびに乱が起きたわけではない。とはいえ、穏便に見えた51代平城天皇と52代嵯峨天皇の間で側近勢力による薬子の変が起きたように一定の緊張関係が生じたのも確かであった。兄弟の間は穏便でも、側近など周辺の力学でいらぬ緊張が生まれることはしばしばみられた。

近現代においても兄宮と弟宮の関係は微妙な緊張関係のなかにあった。明治天皇と大正天皇には兄弟宮はなかったが、昭和天皇には秩父宮、高松宮、三笠宮の3人の弟宮がいた。まだ幼少のころは年の近い、秩父宮、高松宮と同居して、ともに学び遊んだ。

しかし長男である昭和天皇が次期の皇位継承者である東宮になることで、次男、三男とも別居し、東宮として規模の大きい御殿に住み、数多くの側近の世話を受けた。東宮御学問所は、東宮のための特別な教育機関であり、次男、三男、四男には、そうした特別な機関は設けられなかった。

将来の天皇になる皇子はひとりだけであり、その皇子のためだけの教育がなされたのである。それは戦前であれば「帝王学」、戦後であれば「象徴学」とよばれるものであった。

天皇のスペアでしかないことに煩悶することも

「帝王学」にせよ「象徴学」にせよ、唯一の天皇になるための学びであり、同様の学びを東宮ではない弟宮たちにさせることはない。弟宮たちの「帝王学」は「帝王に仕える臣下」としての態度やふるまいを学ぶものであり、東宮と同じ立場で学ぶことは、むしろ許されなかった。

とはいえ、東宮が天皇となりその治政を行うなかで、天皇のやり方などに違和感を持つ側近や支援者たちが弟宮に期待を寄せる事態も生まれていった。陸軍青年将校たちが秩父宮を担いで、平和主義的な昭和天皇と代えたがった動きもそのひとつであろう。高松宮などは悪化する戦局のなかで天皇の方針に同意できず、かつ自分がたんなる天皇のスペアでしかないことに煩悶したりした(小田部雄次『昭和天皇と弟宮』)。

戦後になっても、高松宮や三笠宮は国民と直接ふれあい戦後民主主義に溶け込もうとしたが、天皇家の家長としての昭和天皇はそうした弟宮たちの「奔放で」、「無責任な」ふるまいが気になっていた(『昭和天皇拝謁記』)。