慎重派の天皇と自由奔放な秋篠宮

こうした天皇や弟宮たちとの間の微妙な齟齬そごは、歴代天皇家の伝統を受け継いだ家長としての自覚を持たされた天皇と、その「臣下」と位置づけられてきた弟宮との意識の差から生まれ、かつ戦後の自由で大衆化された社会を肯定する時代の価値観により増幅されたともいえる。

東宮になる兄宮と東宮にならない弟宮との教育の差は、令和の天皇と秋篠宮の養育においてもみられた。そもそもが令和の天皇と秋篠宮はもともとの個性が違い、御養育掛であった浜尾実は「慎重派の兄君と自由奔放な弟君」と見ていた。

その違いは両者の結婚のあり方に如実に示され、弟宮は満24歳の誕生日前に23歳になったばかりの川嶋紀子と婚約し、それも昭和天皇の服喪中であった。兄宮は満33歳になる直前に満30歳で外務省職員であった小和田雅子と婚約した。最初の出会いから6年が過ぎていた。

「上の方は自由に、下の方は窮屈に」の真意

こうした性格の違う兄弟だが、秋篠宮誕生直後の記者会見で皇太子であった平成の天皇は、「二人の子が通学するようになると、それぞれお供や護衛の違いが出てくるだろうが、私は可能な限り、分け隔てしないでいきたい。それまでは、上の方[浩宮]は自由に、下の方[礼宮]は窮屈にとの方針で育てたいと考えています」と養育方針を語った。通学するようになるまでは、兄は自由に、弟は窮屈にと、育て方を違えるというのである。

手をつないで登校する二人の小学生男児
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兄は将来、天皇として窮屈になるから、弟は自由になるからという。実際、成長するにつれて兄はストイック、弟はフレンドリーという印象の生き方になった。「分け隔てしない」とはいえ、平成の天皇も、将来の天皇となる令和の天皇と、天皇となる予定のない秋篠宮とでは、接し方がまったく同じにはならなかった。

そもそも前近代においても東宮傅や学士は東宮のために置かれ、近代以後の御学問所も東宮のために設置された。平成の天皇の代に御学問所はなくなったが、教育参与など多くの識者が「帝王学」さらには「象徴学」の進講に尽力した。

令和の天皇の代になって、教育参与もなくなり、両親の教育と支援によって令和の天皇と秋篠宮の教育はなされてきたが、天皇としての自覚を促されてきた令和の天皇と、弟宮としての一生を予定されていた秋篠宮とでは「象徴学」への取り組み方の熱意が異なっていった。