関八州の鎮守になる

家康が駿府城(静岡県静岡市)で死去したのは元和2年(1616)4月17日で、4月2日には側近の本多正純のほか南光坊天海と以心崇伝いしんすうでんの2人の僧侶を枕元に呼び、死後に遺体を駿河(静岡県東部)の久能山に葬り、祭礼は江戸の増上寺で行い、位牌いはいは岡崎の大樹寺に立てるように伝えたうえで、一周忌が過ぎたら下野(栃木県)の日光に小さな堂を建てて勧請かんじょうするように言い、そうすれば「関八州の鎮守になる」と加えたという(『本光国師日記』など)。

「関八州の鎮守になる」とは、あきらかに自らの神格化を意識した発言だろう。だが、それは家康が勝手に言い出したことではなく、周囲も家康を神にしようとしたと考えられている。

たとえば、後水尾天皇は3月21日に家康を太政大臣に任じているが、大阪大学准教授の野村玄氏は「天下人の神格化に関する直近の先例が豊臣秀吉のみであったことは事実であり、以心崇伝が家康の亡くなる直前に太政大臣への任官を進言した背景には、現任の太政大臣であった秀吉が豊国大明神として祀られた例を意識した可能性がある」と記す(『徳川家康の神格化』平凡社)。

周囲が神格化に向けて、周到に準備を重ねていたというのである。

日光東照宮の陽明門
日光東照宮の陽明門(写真=Fg2/PD-self/Wikimedia Commons

なぜ家康は「権現」になったのか

ただ、家康の遺体が埋葬されたのは遺言どおり久能山で、吉田神道にしたがって行われたが、その後、すぐに論争が起きている。以心崇伝らは、神格化の作法はそのまま吉田家にまかせ、神号は「大明神」にすべきだと主張したが、天海は山王神道による神格化を主張。「大明神」ではなく「権現」にすべきだと訴えた。

ややこしい宗教論争を簡単にまとめれば、こういうことだろう。山王神道は神仏習合の神道思想なので、家康の神号を「権現」とすれば、神への祈りが仏への祈りにもつながる。天台宗の僧侶だった天海は、そこを狙ったのではないだろうか。

前出の野村氏の著書にはこう記されている。「最も親和的に武家権力を仏国の創成に協力させるためには、(中略)神仏習合の神道思想によって天下人を神格化することが最短の道だと考えた可能性があるのではなかろうか」。

そのために、天海は家康の遺言を、多少改変した可能性さえ指摘されている。