「完璧な人になること」が正解とは言えない理由
この世の中で同じ間違いをくり返さないでいられるのは、機械ぐらいしかない。
自分の短所をすっかり補って、以前と変わったという印象を与える人がいるとすれば、それは、あなたの視点が変わったからそう見えている可能性が高い。
つまり、あなたがその人をありのまま受け入れたのであって、その人の性質が180度変わったのではないということだ。
相手の欠点を理解するのと同じく、自分の欠点にもある程度は寛大である必要がある。
他人に被害を与えるような欠点だとしたら、直そうと努力すべきだが、自分の姿がただ気に入らないからといって自分を責めているのなら、そんなに気にしなくてもいい。
私は一時期、完璧な人になろうと努力し、その道こそが正解だと思っていた。しかしあるとき、完璧さに対する自分の基準を相手にも押しつけていると気づいたのだ。
その瞬間、しまった、なにかを間違えていたと思った。
変わることは、この世で最も難しいことであると同時に、簡単なことでもある。
なぜなら、変わろうと心に誓った瞬間、すでに半分は変化しているからだ。そしてなにより、人間は完全に変わることはできなくても、努力を重ねて互いにフィードバックを与え合うことによって自然に成長していく。
だから、自分の人生は手の施しようがないなんて思わないでほしい。もっとよい自分になりたいという気持ちだけを大切にすれば、それで十分だ。
切実に願えば、残りの行動はおのずとついてくる。
「休息がストレス」なのは自分を知らないから
私は感情の起伏が激しく、理由もなく憂うつになることがある。自分の心をきちんと探ってこなかったせいだ。
折に触れて心を点検しなければ、そのときどきの感情に浸って、周囲の環境に振り回されることになる。
時には他人からの頼みごとを断り、いい人であるのを拒否して利己的に生きなければならない理由はそこにある。
必要以上に他人に合わせていると、自分のなかで感情が消耗しきって、おのずと燃え尽きてしまう。
本来の自分を守りながらも、みずからの限界を把握し、無理をしてはいけない。
余計なことに傾かず、重心を保って進むべき方向をしっかり設定するとき、恐怖は消える。予測できない未来が怖く感じられるのは、自分自身が何者であるかを知らないからだ。
私たちは、自分自身を理解していないために、休んでいるあいだにもなにかをしなければならないような不安にさいなまれる。
自分がどこに向かうべきかを知っていて、なにが好きで、なにが嫌いなのか、なにが必要なのかを知っていれば、休息をとってもストレスを感じることはない。
自分の心を知ることができる人にとって、休息は、底をついたエネルギーを貯めるための時間になる。