学生時代はマスコミ志望ではなかった
2002年に当時官房副長官だった安倍晋三元首相の番記者になって以来、官邸や政党、外務省などの担当をしつつ、結果として20年以上にわたって安倍さんの取材を続けました。2022年7月8日、安倍さんが遊説先の奈良市で凶弾に倒れる前日の夜も、電話で話をしていました。なぜ私は政治記者になったのか。
私にとって政治は縁遠いものでした。そもそも学生時代は記者になるつもりすらありませんでした。
高校時代を県立千葉高校で過ごし、理系のクラスに所属していた私は、医者になるのが夢でした。でも、いくら勉強しても物理と化学が苦手で。私は泣く泣く夢をあきらめ、高校2年生の夏に文系に転じる決意をしました。そこからは、数学や現代国語を中心に得意な教科を強化する方針で勉強をすすめ、東京大学に進学しました。
東大生は1、2年生のうちは全員が教養学部に所属し、3年生から法学部や経済学部といった専攻に分かれます。このため多くの学生は3年生から勉学に本腰を入れるのですが、要領の悪い私は1年生からメリハリをつけずに勉強していました。
テニスサークルや大学祭など、楽しい学園生活はあっというまに終わってしまい、法学部に進んでからは司法試験を目指して予備校に通い始めました。予備校、大学の図書館、自宅のみを往復する、砂漠の「三角生活」を送ることになりました。
最初は雰囲気が良い山一証券に入ろうと思っていた
とにかく「公法」が克服できずにいました。当時の司法試験は、論述の試験が6つの科目に分かれていましたが、「憲法」や「刑法」の点数が一向に伸びなかったんです。
あえて単位を残して大学に残り、司法留年をして試験に挑み続けましたが、何度トライしても論文試験の壁が立ちはだかっていました……。悩んだ末に大学6年目の7月、まだ採用活動をしている企業を片っ端から受けました。その結果、山一証券や電力会社などの一般企業のほか、NHKの内定を得ることができました。
私は、面接の時から山一証券の家族的な雰囲気に親しみを覚えていました。ところが採用担当の方から、「採用が決まった後に言うべきかどうか、悩んだのですが……。長期的な観点から、うちには来ないほうがよいかもしれません」と言われてしまいました。
理由を尋ねても口ごもるばかりで、明確な理由は教えてもらえませんでした。その後、山一證券の不正会計が報道され、自主廃業が発表されました。その報道に接した時、山一証券の親心のようなものを感じました。