なぜ日本の半導体産業は凋落してしまったのか。半導体産業コンサルタントの湯之上隆さんは「『技術で勝って、ビジネスで負けた』と理解されることがあるが、それは間違っている。端的に技術で敗北したのだ」という――。(第1回)

※本稿は、湯之上隆『半導体有事』(文春新書)の一部を再編集したものです。

CPU動作チップ
写真=iStock.com/Thicha studio
※写真はイメージです

日本の半導体メモリは韓国企業に駆逐された

2021年6月1日午前9時、筆者は、衆議院の分館4階第18委員室の参考人席に着席していた。衆議院の「科学技術・イノベーション推進特別委員会」から、半導体の専門家として参考人招致を受け、「日本半導体産業の過去を振り返り、分析、反省し、その上で将来どうしたらいいか?」について、意見陳述を行うよう要請されたからだ。

筆者は20分強の意見陳述で、主として次の3点を論じた。

①日本のDRAM産業は、安く大量生産する韓国の破壊的技術に駆逐された
②日本半導体産業の政策については、経済産業省、産業革新機構、日本政策投資銀行が出てきた時点でアウトとなった
③日本は、競争力の高い製造装置や材料を、より強くする政策を掲げるべきである

以下では、これらの要点について説明する。この意見陳述は、衆議院が作成した動画をYouTubeにアップしている。

筆者は、意見陳述のタイトルを、『日本半導体産業をどうするべきか? ――希望は製造装置(と部品)&材料――』として、自己紹介から話を始めた(図表1)。

DRAMの凋落と共に歩んだ技術者人生
出所=『半導体有事

筆者は、日本がDRAMで約80%の世界シェアを独占していた頃の1987年に、日立製作所に入社して半導体技術者となった。その後、DRAMのシェアの低下とともに技術者人生を送ってしまい、日本がDRAMから撤退すると同時に、早期退職勧告を受けて、本当に辞めざるを得ない事態に至った。

しかし、転職先探しに時間がかかってしまい、辞表を出しに行ったときには早期退職制度が終わって1週間ほど経っていた頃で、部長から「撤回はなしだよ」と辞表をもぎ取られ、自己都合退職となってしまい、早期退職金3000万円はもらえず、退職金はたったの100万円になった。