戦後に就任した事務次官のなかで、女性は松原亘子さんと村木厚子さんの2人だけだ。なぜこんなに少ないのか。経済ジャーナリストの岸宣仁さんは「キャリア官僚の世界がいかに男性優位であったかを如実に示している。背景には男性キャリア官僚との育成方法の違いがある」という――。

※本稿は、岸宣仁『事務次官という謎 霞が関の出世と人事』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

退任記者会見で笑顔を見せる村木厚子前厚生労働事務次官=2015年10月1日、東京・霞が関の厚生労働省
写真=時事通信フォト
退任記者会見で笑顔を見せる村木厚子前厚生労働事務次官=2015年10月1日、東京・霞が関の厚生労働省

戦後、次官になった女性は何人いるか

「事務次官」を主題に据えた本書(『事務次官という謎』)だが、固定観念として「東大法学部卒」と同時に、「男性」をイメージしている読者が多いのではないか。明治時代に今日のキャリアにつながる官僚制度が誕生して百数十年、東大法卒と男性はワンセットのように見られてきたのだから当然と言えば当然であった。

クイズもどきの質問になって恐縮だが、戦後に就任した次官の中で、いったい女性は何人ぐらいいただろう。ここでは「次官級」ではなく、あくまで事務次官のポストに就任したかどうかを前提とする。

その問いに対する答えは、

松原亘子のぶこ労働事務次官
村木厚子厚生労働事務次官

のたった2人に過ぎない。

各省官制発足後、霞が関で何人の次官が誕生したかつまびらかではないが、財務省(旧大蔵省)だけで90人超にのぼることから連想してみる。この間、府省の統廃合が進んだため、すべての府省の次官数を集計するのは至難の業であり、現在ある1府12省庁を最少ラインとすると、90人の12倍にあたる1000人を優に超える次官が生まれた勘定になる。そのうち女性次官がわずか2人ということは、確率にして0.2%しか就任できず、キャリア官僚の世界がいかに男性優位であったかを如実に示す数字ではある。

女性次官は2人とも労働省出身

その稀少(?)な、女性次官2人の経歴を見ておこう。

[松原亘子]64年東大教養学部卒業後、労働省(現厚生労働省)入省。婦人少年局婦人労働課企画官、国際労働課長、官房審議官などを経て、91年婦人局長。その後、労働基準局長、労政局長を歴任し、97年労働事務次官に就任。

1年3カ月の任期を務めて、98年10月に退官。日本障害者雇用促進協会会長や、イタリア特命全権大使、大和証券グループ本社取締役など要職を務めた。

[村木厚子]78年高知大学文理学部卒業後、労働省入省。障害者雇用対策課長、障害保健福祉部企画課長、官房政策評価審議官などを経て、08年雇用均等・児童家庭局長に就任。