自身を「心あるモノ言う犬」と卑下した意味

そして、先のタイタニック号の喩えを再度持ち出し、「衝突するまでの距離はわからないけれど、日本が氷山に向かって突進していることは確かなのです」と強調する。この破滅的な事態を避けるには、最も賢明なやり方で対処していかなければならず、それを怠れば「将来必ず、財政が破綻するか、大きな負担が国民にのしかかってきます」と指摘し、次のように結ぶ。

「今日は、『心あるモノ言う犬』の一人として、日本の財政に関する大きな懸念について私の率直な意見を述べさせていただきました。今後も謙虚にひたむきに、知性と理性を研ぎ澄ませて、財政再建に取り組んでいきたいと思っています」

国家公務員である自身を、「心あるモノ言う犬」と卑下しているのは、政と官の関係を意識してのことだろう。腹の内の本音はともかく、政治に対する官僚の立場をわきまえているという姿勢を明確にする効果を狙ったものだ。

シベリアハスキー
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そこまで自らを貶めた矢野に対して、政治からの批判は予想以上に厳しいものがあった。自民党の政策責任者である高市早苗政調会長は、「全国会議員をばかにした話で、大変失礼な言い方だ」と真正面から批判。「基礎的な財政収支にこだわって本当に困っている方を助けない。未来を担う子供たちに投資しない。これほどばかげた話はない」と語気を強めた。

ちょうど衆院選の公約が練られる時期と重なり、自民党幹部会でも財務省への批判が相次いだ。結局、内閣のお目付役である松野博一官房長官が「私的な意見を述べたものと承知している」と差し障りのない表現でその場を収めたが、矢野次官の論文はのちのちまで陰に陽に、政官の関係に影響を与え続けたように見えた。

論文発表は「最悪のタイミングだった」

矢野論文が発表されてほどなくして、財務省の次官経験者三人にどう読んだか、率直な感想を尋ねた。先に結論から言うと、三人が揃って批判的な見方を明らかにした。いや「批判的」と断定してしまうと言葉が過ぎるやも知れず、正確に表現するなら、「効果は期待薄」に近いニュアンスかもしれない。

三人がどのような発言をしたのか、名前を引用しない条件で聞いた話なので、以下では、彼らの見解を三つの視点に分けて強調した部分を紹介してみる。

まず、論文を寄稿した時期について。官僚から見ると「最悪のタイミングだった」と映ったようだ。雑誌の発売が2021年10月8日、その前の10月4日に岸田文雄内閣が発足し、発売から間もない10月19日に総選挙が公示された。出版社からすれば、政治イベントが続く絶妙なタイミングだったのだろうが、官にはむしろ逆風になりかねないとの声が強く出た。

「あの論文の最大の問題は、新内閣発足直後、総選挙直前という微妙な時期に出たことだね。選挙を目前に控えて、財政再建に打って出るとか、消費税増税に打って出るとか、荒唐無稽な理想論は打ち出さないほうがいい。あの論文の趣旨はいつも省内で議論している話をまとめたもので、あの時点で彼が大和魂を鼓舞して叫んだとしても、財政再建が進むということにはならないし、犬の遠吠えで終わってしまうのがオチだと思う」