一方、社内で生き残ったホワイトカラーはしぶとかった。90年代後半になると、バブル後の低迷を逆手に取って、経営革新やマネジメントの重要性を訴え、保身のための仕事をふたたびつくり始めた。パソコンが一人一台支給の時代になってプレゼンテーションツールも普及し、自分たちの仕事の必要性をアピールするスキルもアップした。

こうして一度は管理部門をリストラした企業でも、ホワイトカラーが再増殖を始めた。管理部門のホワイトカラーが増えれば人件費が経営を圧迫するが、コスト削減や海外への工場移転など、主に生産部門の犠牲によってカバーされた。モノをつくっても売れないので、営業の力も以前ほど強くない。管理部門が重宝されたわけではないが、現場に元気がなくなり、相対的に復権を果たしていった。

こうした変化の中で、バブル期にもてはやされた型破り人材はハシゴを外される格好になった。かつての経営トップは、「思うようにやってみろ。責任は俺が取る」と言って型破り人材にチャンスを与えた。しかし、その多くはバブル崩壊で本当に責任を取り、引退を余儀なくされた。後ろ盾を失った型破り人材は、窓際しか居場所がないケースも多々あった。

引退したトップたちの後を引き継いだのは、バブル期に無茶をせず、脛に傷を負わなかった人たちだ。このタイプは内向きで、リスク回避志向が強く、自ら新しい井戸を掘るより、人が掘った井戸から水をくみ出し、まわりにうまく配分する管理調整能力に長けている。こうした上司が好むのは、自分と同じ「優等生タイプ」。要するに飛びぬけて優れているわけではないが、失点も少ないタイプが引き上げられやすくなった。

日本全体が委縮する中でも、ITベンチャーやそこに投資する商社など、一部には外向きなタイプに期待する雰囲気は残っていた。しかし、重厚長大型企業の多くは、新規事業を展開したくても設備投資する余裕がなく、内向きにならざるをえなかった。

優等生タイプを別の角度から見ると、企業の人材育成パターンに乗った人ということもできる。型破り人材が登用されていた頃は、いわゆる「出世コース」から外れていてもチャンスはあった。しかし、型破り人材を登用する上司が少なくなったため、従来の育成パターンを着実に歩んできた社員にしかポストが残らない傾向になった。こうなった理由の一つは、バブル崩壊で若手を一から鍛える余裕がなくなり、人材育成自体が軽視されるようになったこともある。それと歩調を合わせるように成果主義の導入が始まり、能力よりも実績重視、結果を出したければ自力で頑張れと突き放す企業も増えてきた。かろうじて従来の育成パターンに間に合った中堅は優等生となって出世の階段を上れたが、間に合わなかった若手の中には、「自分で磨くしかないなら、いろいろ経験できるほうがいい」とITベンチャーなどに転職する人も多かった。中堅と若手を明確に区別することは難しいが、バブル入社組が30代の時代。このあたりの世代を境に、従来のレールに乗れた人と、もはやレールがなくなってしまった人に分かれてきたのではないだろうか。

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※すべて雑誌掲載当時

(構成=村上 敬 撮影=澁谷高晴)
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