「人に意見を言わせる」役割も求められるように

【朱】我が意を得たりと思って聞いていました。一問一答が問題になっていましたけど、実際には「検索の仕方」ですよね。それに、一問一答のかたちでしゃべって、ひろゆきみたいに何かを断言して、誰かを論破したい人自身が問題になっているというより、それを見て喝采したい、そうした論破劇のオーディエンスでいたいという欲望の方が問題だなと思って聞いていたんです。

【杉谷】確かに、誰もが答える側、話す側、意見を言う側に回りたいわけではない。多くの人は、一問一答において、いい感じの「答え」を見たいだけなんですね。

【朱】そうそう。誰もがしゃべりたがっているわけじゃないんだけど、でもこの今の世の中って、大学がそうであるように、みんな自分の意見をしゃべりなさいという方向に権力を働かせるわけですよね。ファシリテーションなんかは典型的で、基本的には自発性を発揮しなさいということを強制するタイプの権力。

【谷川】ちょうど最近、そういう権力を「自由促進型権力」と名付ける議論が出てきましたが、まさにそういう感じですね(渡辺健一郎『自由が上演される』講談社)。

【朱】意見を話すスキルだけでなく、意見を話させる類のスキルセットを養成しようとする流れもあるわけですよね。ファシリテーターを養成して、ワークショップが主宰できますだとか。なぜこんなことが求められているのかというと、一つの背景は市民の意見を収集して、コンセンサスを形成し、それが政策に反映されたんですよという建て付けを作っていく上で大事だからですよね。

カフェで何かについて議論する二人
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「聞くことに徹する」ことが求められる哲学対話

【朱】参加型行政を進めていく上で、しゃべらせる権威としてファシリテーションが要請されている。大学などで、そういう人を養成する課程もあるとはいえ、別に大学はそれだけやっているわけでは全然ないですよね。

この本の企画にある「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉を聞いたときに連想したのが、僕が学生時代を過ごした大阪大学の鷲田清一さんが推進していた、哲学対話や哲学カフェです。いくつかのやり方や流派がありますけど。

――哲学対話とか、哲学カフェって何ですか?

【谷川】集まりごとに違いはありますが、簡単な対話のルール(何でも話して構わない、話を遮らずに最後まで聞くなど)を設定して、市民同士がざっくばらんに話し合う実践です。特定のテーマ、たとえば「友達とは」みたいなものが掲げられていることもあります。ただその場合も、講座やシンポジウムのように、何か教え伝えるものではないです。

【朱】僕は、大阪大学の文学部研究科の哲学・哲学史研究室出身なんですけど、鷲田さんは隣の臨床哲学研究室にいたんです。その鷲田さんが当時よく言っていたのが「聞くことの力」です(『「聴く」ことの力:臨床哲学試論』ちくま学芸文庫)。哲学対話にも「ファシリテーター」はいるんですが、これは参加型行政がアリバイ的に求める「意見をしゃべらせる権力」ではなくて、むしろ聞くことに徹すること、聞く側でどこまでいけるかということが求められるんです。