「寡占」の崩壊で儲からない商売に
この組織の時代の新聞社が音をたてて崩れているのが、この20年の変化である。パソコンの普及で誰もが簡単に大量の情報を印刷でき、「インターネット」によって、瞬時に多人数宛に情報を伝達できるようになった。輪転機と製版社員が必要だった新聞社は「装置産業」だった。巨大な資本と大量の社員と、販売店網によってはじめて可能なビジネスだったのだ。この前提が新しいイノベーションによって崩れたわけだ。
その結果、「組織」にあった信頼が再び「個」に戻り始めた。ジャーナリストの田原総一朗氏のツイッターのフォロワーは現在35万人(4月13日現在)。週刊経済誌の発行部数をゆうに上回っている。つまり「××新聞」が言うよりも「田原」という個人の言説のほうが影響がある状況になりつつあるのだ。
加えて広告モデルという構造も壊れた。大資本が必要な時代はメディアは寡占だったので、広告モデルが成り立った。大資本が必要でなくなり、寡占も崩れれば、期待収益率が低くなるのは資本主義の帰結だ。新聞は儲からない商売になったのである。
この広告モデルは情報への対価を不透明化するという点で麻薬だったといえる。読者は月額4383円(日経の場合)を情報料と思って支払っているが、実際にはそのかなりの部分が販売店の維持費を含めた“配送コスト”に消えている。一方で、ネット上には無料の情報が多くある。読者からすれば、「4000円以上も払っているのに、情報の質が低い」という不満が出てくる。「広告収入が減ったから情報の質が下がった」では読者は許してくれないのだ。
組織の時代から個の時代へ。これはいわば「原点回帰」である。大新聞という権威が崩れ、その発信する情報への信頼が揺らぐ一方、立脚点を明確にした個人の情報発信への信頼が高まっている。個人が発行する有料メールマガジンも広がり、月1000円ほどの情報料で1000人以上の会員を集めるジャーナリストも出てきている。
だからといって組織ジャーナリズムが不要になったなどとは言わない。今後ますます増える個と個のネットワークに「場」を提供する機能が一段と求められるのは間違いない。ジャーナリズムを貫くのにも個では非力だ。だが縮小均衡を進める経営ではジリ貧だ。会社は、成長すれば利益が出るのを見ればわかる通り、縮小すれば赤字が出る。縮小して均衡することはありえないのだが、日経を含め既存メディアの多くがこの縮小均衡のワナにはまっている。