職場での自分は、役割を演じる「仮想現実」でしかない
誤解がないように言っておきますが、私は仕事で得られる喜びを否定しているわけではありません。社内外で評価を得て、組織のリーダーとして力をふるい、結果的に報酬も増える。そんなビジネスマンとしての生活は、私自身の経験から言っても、大きな充足感をもたらすことはたしかです。
しかし、その充足感も、先ほど述べたように「期限付き」であることを忘れてはいけません。もう一つ、あえて言えば、仕事はゲームだからこそ、そんな喜びを得ることができるのです。
仕事はゲームである。こんなことを言うと、旧世代の人たちは「仕事をゲームとは何事か」とまた反発します。
「仕事はそんな甘いものじゃない」
「そんな安易な気持ちで仕事と向き合うなんて、志が低い」
やはり、ゲームという言葉の軽さが気になるのか、仕事を貶おとしめられているような思いになるのです。もちろん、私は仕事は軽いものだと思わないし、甘い気持ちで取り組んでいれば、トリンプ時代の「19期連続増収増益」という業績など残せるはずもありません。
ゲームだからこそ勝たねばならないと思い、必死になって取り組んだのです。では、その「ゲームだから」という言葉を、なぜ使うのか?
仕事の場は、一種の「仮想空間」だと思っているからです。
仕事では、職業や役職の違いにかかわらず、その職責に応じた役割が求められます。その役割とは、人柄や人格とは関係なく、あくまで組織論や経済的合理性にもとづいた任務です。高度に発達した社会システムのなかで、「そうあらねばならない」と決められた役割モデルを、私たちは演じているのです。
たとえば、社長であれば、営業、財務、技術分野など社内のひと通りの業務に精通し、かつ組織を束ねていく強いリーダーシップも求められます。組織改革に取り組むときには、社内の反乱分子に恨みを買ってでも、信じる改革を断行しなくてはなりません。
この原理は、一般のビジネスマンでも同じことです。取引先の担当者に気をつかい、上司の厳しい命令に従うのも、職務と役割に応じた行動原則というものがあるからです。
ビジネスの一般常識や社会的ルールのフィルターも通しながら、私たちは「そうあらねばならない」と規定されている役割を演じているのです。
ビジネスパーソンとしてのパーソナリティ(個)は、あくまで演じるなかで確立しているもの。だから、その個が活躍する場は、「仮想空間」とも言えるのです。