仕事漬けの言い訳に使われる「家族のため」という言葉

定年を60歳とすれば、いまの時代、それ以降も20年は人生が残っています。先に挙げた答えは、その20年の期間にはまったく通用しないものです。あくまで60歳までという期限付きの自己実現であり、そこで終わってしまう生きがいやアイデンティティなのです。

実感が湧かないと言うなら、円を書いて、中心を通るタテ・ヨコの線で4分割してみてください。円をあなたの80年の人生と考えるなら、右上の4分の1の円が、あなたの人生の最初の20年。大学に進学すれば、これは就職前の時期ですから、仕事による自己実現の領域にはなりません。

そして時計回りにまわって、左上の4分の1の円が、あなたの定年後の20年。これも同様に、仕事に自己実現やアイデンティティを求める領域にはなりません。人生最初の20年と合わせれば、円の半分が「領域外」ということになります。

つまり、人生の半分にしか通用しない価値基準を「生きがい」とか「アイデンティティ」と言っているのです。これは、どう考えてもおかしいと思いませんか?

旧世代の人たちは、こんなふうにも言うかもしれません。

「期限付きだろうと、人生の半分だろうと、その間、家族のために働くのがいったいどこが悪いのか?」と。

家族のため――。これは、結婚して子どもも生まれて、妻子を養う身になれば、たしかに錦の御旗になります。しかし実際には、その旗色がずいぶん褪せてしまっているのが、日本のビジネス社会の現実です。「家族のため」という言葉が、仕事漬けの自分への免罪符になっているのです。

家計を支えるサラリーを得るために、家族との夕食はおろか、顔を合わせる時間さえ奪われるような働き方をして、はたしてそれは、本当に「家族のため」と言えるでしょうか。

「いや、家族はオレの苦労をわかってくれているはず」

旧世代の人たちは、そんなふうに自分に言い聞かせたりもします。しかし、そう信じていたのにもかかわらず、定年と同時に、奥さんから引導を渡されるケースがあります。家庭を顧みなかったツケとして離婚を突きつけられることですが、それは危うく免れたとしても、家での邪魔者扱いが待っています。

そうなってから生きがいを見つけようと思っても、そんな簡単にできるものではありません。子どもが独立してしまえば、結局は奥さんにすがるしかないのです。

いったい何のために働いてきたのか。いったい誰のために働いてきたのか。そんな思いが頭の中をぐるぐるまわっているところへ追い打ちをかけるように、「産業廃棄物」などと揶揄される。それでは、あまりに悲しすぎます。

期限付きの自己実現なんて、いかにもろいものか。仕事に生きた証を求めてはいけないことを、一日でも早く胸に深く刻んでほしい理由が、ここにあります。